樽の穴再考--メールをいただきました!

2012年5月25日
カテゴリ : 多読, 多読的リスニング(多聴), 多読的鑑賞, をさなごのやうに, 多読のパラドックス
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樽の穴について、「Tsubasa」さんのブログを紹介して、
みなさんからいくつか反響がありました。

そのうちの二つを紹介します・・・

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一つは「ぴ~ママ」さんから・・・

・・・ありゃりゃ、メールが見つかりません。

でも、大事なところは覚えています。
学校英語は「樽の穴」ではなくて、「箍」なのではないかという説です。

なるほど!とわたしは思いました。

学校英語には「正しくなければいけない」というきついたががはまっていて、
(だからこそ試験には具合がよくて、試験作成も受験も簡単なのですが)
溜まった英語が外に溢れるのを阻止していると・・・
溜まるばかりで何の役にも立たず、下手をするとただ腐っていく・・・

よいたとえのように思われます--樽の外にはその箍を多読がはずしてくれる
というわけです。

一旦箍が外れると、樽に溜まっていた英語は四方八方にあふれだして、
昔話のバリエーションを探したり、仕事に使ったり、Skypeで外国語の人と話を
したり、と弾けるわけですね。

(とてもよい提案で、これからわたしもつ買わせてもらいます。
ただし、「たとえ」の常で、厳密に現実を写している訳ではないし、
それが「たとえ」の役割でもありません。「樽の穴」のたとえとの
「整合性」のようなものはもちろんありません、念のため)

もう一つは「カナダのお母さん」からは「自分で樽に穴を開けている」という感想が
寄せられました。

カナダのお母さんは、このところさらに英語に慣れてきて、
Oxford Bookworms Library のStage 6 がそのまま楽しめた、ということで
ご自分でびっくりしています。

(カナダのお母さんは、わたしの研究室で毎週1回数時間絵本を楽しんだあと、
カナダでテレビ・ドラマを楽しむようになり、そのまま花開いた人ですが、
その間、文字はほとんど読んでいなかったようです。)

で、驚いたことにイギリスBBCのラジオドラマを楽しく聞くようになり・・・と、
進んでいったのですが、

視聴中「そのまま入って来て、そのまま理解」出来ます。
でも それに気が付いた途端、「全く」理解出来なく成ります。
 
自分で樽に穴を開けているんですね。。。

これは強烈です。言葉の本質だとわたしは思います。

言い換えれば--

(自分が理解しているのが)言葉だと意識した途端、言葉はわからなくなる!

文法であれ、単語であれ、同じことです。言葉と意識した途端に、
内容は入ってこなくなるのです。

同じことをわたしは前に書いたことがあります、どこかで。
たしかこんなひょうげんでした・・・

リスニングの時に、ただ聞いていれば内容が入ってくるけれども
一つ一つの語を聞き取ろうとした途端に、内容はわからなくなる

おもしろいですねえ・・・

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禅の公案みたいなものは日常のどこにでも転がっているのだという気がします。
そして、そんな具合に「世の中は(論理では?)理解できないものだ」ということと
「世の中は(勘で?)理解できるものだ」ということが両立しているところもおもしろい!

きっちりしないといやだと言う人へ・・・

たとえ「論理では理解できない」としても、がっかりすることはありません。
「論理で理解しようとする」ことも楽しいことではあるし、だから意味があるのでし、
当面、勘で理解すれば十分楽しめるのですから。

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