蹴りたい背中が自分で背中を蹴ったとき

2010年7月26日
カテゴリ : 多読, 多読的リスニング(多聴), 聞き読み, 多読的鑑賞, 多読的シャドーイング, 多読的おしゃべり, 多読的ライティング, 多読的翻訳
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一つ前の記事を書いた人の英文を例としてお見せしたいのですが、
肯んじてはくれないでしょう。

要するに、2年前は堅かったのに、1年くらい前にはずいぶん肩の力が抜けて、
でも、もう一息だなと思っていましたが、その後、実に楽に、実に楽しそうに
文章を書きはじめました。

いつか2年前からの三様の変化を並べたいのですが、
きょうのところはそうした変化のきっかけの話をちょこっと・・・

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わたしはそういう変化がなぜ起きたのか知りたくて、
何ヶ月もの間、この人に原因を書いてくださいとお願いしてきたのでした。 

先生が”書く”のことで、私に求めていらっしゃるのは、
変化してきた理由、ですよね?

フリーライティングというだけでは、満足していただけないようですが、
先日、先生の講演を聞いていて考えたこと。

これはたしか横浜の「Tsubasa」さんが主催してくださった集まりのことでした。

そこでわたしは 正しく書こうとしなくていいです、気持ちに任せて流れること、
これがいちばん大切なようです、という話をしたのではなかったか?

以前であれば、書こうとしたときに、
脳内で一番活発にやっていたことは、
英文が正しいか正しくないかを判断することだった。

でも今は、最初に書くときは、正誤を意識することは、全く無いかも。

「最初に書くときは」というのは、書き終わったあとで(?)見直しをするからかな?

それを Stephen Krashen という言語学者は monitor と言っています。
文法をいくら学んでも、言葉を作り出す(書く、話す)には役立たない、というわけです。
文法は書いたあと、話したあとで、「いまのは正しかったかな? どうかな?」という
チェックができるようになるだけだと・・・

で、なぜそうなってきたかというと、

多(読・聴)により、他の基準を手にした(いやまだ手にはしていないが)、
よい文章というのは、正誤だけで決まるものではない、と知ったから?

これ ↑ すごーく大事!

「よい文章というのは正誤で決まるものではない」 まったくそうです!!

  (けれども、これはわかりにくいことだと思います。
   英語を書く、といったら、(あるいは話すといったら)まず気になるのは
   「正しいか、間違ってるか」ですよね。

   英文が書けるようになるということは「正しい文が書けること」って思うのは
   ごく普通のことでしょう。その意味でも、多読仲間は「普通」じゃない!

   だからこそ、なぜ「正誤だけで決まるものではない、と知った」のかを
   聞きたいですね。

   そこにはたくさんの人が 「正しく」から「楽しく」 へ気持ちを切り換える
   ヒントがあるはず・・・)

じゃあ、なにが大切か・・・

フロー(感覚的流れと主張のつながり方の両方)、リズム、
voice(なんちゃって)が適度に感じられない正しいだけの文章
(教科書とか)は、へんてこ、なんだと。

そう思います。このところわたしはこの中でもとくに「流れること」をきわめて
大事だと思っていて、なんといまは、こんな風に考えています。

   言葉の獲得は流れにはじまり流れに終わる

なんちゃって・・・

いや、もう少しわかりやすい言い方を考えました。

   正しいかどうかに気持ちが向いていると、言葉は流れない!

もしくは

   とまっちゃだめ!

たいしてわかりやすくなっていませんね。
主張のつながり方が流れるように、もっと修業します・・・