【新しい旅立ちへ・・・】 メモ わからない が わからない
2011年4月 4日
カテゴリ : 多読
タグ: ながら, をさなごのやうに
【新しい旅立ち・・・】の話題はそもそも「バンク-」さんの掲示板への書き込みから
はじまったのでした。
バンクーさんの訴えをわたしは「ずいぶん多読したのに進歩が感じられない」という
風に解釈しました。そして、そういう人がかなりの数いるにちがいない考えました。
そこから一気に「劇薬シャドーイングのすすめ」に至った途中はこの記事では
省きます。
さらにちょっと飛躍して、「進歩が感じられない」人たちは
英語がわかるようになった気がしない
のだとすると、以下はその「わからない感」についてのメモです。
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*「わからない」 の研究(?)が必要かもしれない。
*「わからない」にはいくつか種類があるだろうけれども、
一つには、書いた人が自分向けの言葉遣いをしている場合がありそうだ。
たとえばいちばん極端な例では、詩はわかりにく、むずかしい。
それは詩人はことばの新しい使い方を見つける人たちだから(?)
それに近いのは「純文学?」のわからなさ、むずかしさ。
いちばん「わかりやすい」のは大衆小説?
シドニー・シェルダンとか、ジョン・グリシャムとか・・・
こういう人たちはいわば「自分のために書く」のではなく、
「たくさんの人のために書く」ので、ことばの使い方が「一般的」
それに対して、純文学(?)や詩はだれにも使われたことのない使い方をする。
*詩や純文学(?)を読むと、「わかっていたはずの語がわからなくなる」のは
作者が独創的な使い方をしているから?
*「わかる」の楽しみや仕事で「必要なもの」を読むから?
つまりそうした感情的理性的な必要のないものを読むときは
「わかる」可能性が大幅に落ちる?
つまり、「わからない」のは「必要がない」と同値?
*「多読的精読」ということばは間違いだった・・・!
「わかる」とは、文章を辞書的文法的に説明できることであり、
「わからない」とは、それができないこと、という誤解があると思われる。
掲示板で「いづこ」さんが提案してくれたように、
せめて「精読的多読」と言えばよかった・・・
多読的「精読」と表現したので、
多読を通じて(従来の)精読に至ると誤解させてしまった・・・
(多読的精読ということばに縛られた人もかなりいるかもしれません)
(言い訳が許されるなら、そうした誤解を避けるために
多読的精読とは「さらっと読んで、深くわかること」
と言ってきましたが、「精読」ということばが入り、「わかる」ということばが
はいっているので、かえって誤解を招いてしまったと思われます。)
*「深くわかる」とは、「日本語と同じように読める」こと?
読み終わって、あとで思い出したときに
「英語で読んだのか、日本語で読んだのか」
思い出せない? かーっこいー!
*劇薬シャドーイングを強調しすぎたかもしれない。
劇薬シャドーイングは 「わかる・わからない」 という基準や
「正しい・正しく」 という基準を抜け出すため、
頭の中を 更地 にするための手段のつもりでした。
けれども、その手段が目標のようにみなさんに思われているかもしれません。
ブラウン神父ではありませんが、「またやっちまった」という気持ちです。
頭の中を更地にするにはほかにも方法があります。
たとえば海外ドラマにはまって、「英語で見ていることを忘れる」なんていうのも
頭の中が更地になっているはず。(をさなごのやうに)
(そこで、以前から「ながら」に注目しているのですね、わたしは。)
うーん、またしても メモ にしては長くなってきた・・・
おわり!