蹴りたい背中 「すろっぴ」さんからのメール
2010年5月28日
カテゴリ : 多読, 多読のパラドックス
タグ: お勉強, 多読の先にあるもの, 好奇心
わたしは、「多読が進んで独り立ちしたら、あとは好きなように」ということを
どの程度積極的に言っていたのだろう? ということで掲示板で意見募集をしました。
あれからしばらく経ちますが、メールでいただいた意見をいまごろになって
記事にします・・・
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三原則のあとは好きなように、ということをさかい先生に言われたかどうかの記憶はさだかではありません。
わたし自身が覚えていないので、みなさんに「ぼく、こんなこと言ってましたっけ?」
とおたずねしたのですから、みなさんがおぼえていらっしゃらないのは無理もない。
が、YYYYYさんをはじめ、そういう、どんどんいろいろな分野にはばたいて行く人たちの例を先生はたくさん語っておられましたし、
わたしもあるとき、tadoku.orgというのは「英語の遊び場」(遊びや遊び方の情報交換をするところ)と気づき
(そう言ったら、先生はとても嬉しそうに握手を求めてきましたね、
ご記憶でしょうか?)
これも覚えてません!
勝手に好きな分野で読んだり書いたり聴いたり楽しめばよいのだと理解しておりました。
これは、「和訳しない」という条件(?)にも似ていますね。そういうものだと多く
の人は理解していたけれど、そう思わない人々もいたという話。(辞書を調べず、わからない単語を飛ばしておいて全文を和訳するとは、また面倒なことを!)
実はいまではかなりそういう人がいると思われますね。
「多読」はいまやずいぶん薄まった形で広がっている・・・
(・・・ではないですね。広まったから薄まった。当然のことです。)
100万語もペーパーバック読書もゴールではないということを強調した方がよいのかもしれませんね。
はい、そうですね。
かつては100万語がゴールのように見られていたこともありましたが、
ゴールは近づけば近づくほど遠ざかるもの・・・
多読は英語(外国語)で好きなことを好きなようにできるための、土台作り・・・
というような感じでしょうか?
ああ、あとは
わたしたちはことばを多様な形で楽しく吸収しようとしているのであって
つまりはコミュニケーションの道具をひとつ手に入れようとしているのだと。
伝えたい、分かりたい、分かり合いたい、という気持ちのない人には、そもそも意味はないと思うのです。
う、これはまた厳しいことを・・・
でも、それは本当ですね。
ただ一言だけ注をつけると、純粋な読書というのは作家とのコミュニケーション
だったり、自分とのコミュニケーションだと思いますね。
もうとっくに世の中にいない人と気持ちが通じ合ったと思えるのはなんとも
言えませんね。読書の醍醐味ですね。