[毒リンゴ]ちょっと訂正・多読と受験、多読で受験
2010年2月11日
カテゴリ : 多読, 多読と受験
タグ: 多読と受験
わたしが「そふぃ」さんの受験支援をしていることは察していた人もいるでしょうね。
で、きのう、最後の対面支援(?)をしたとき、そふぃさんは昨年の9月に解答した
英文和訳問題を、きのうもう一度解答してみたと言って、二つを見せてくれました。
それがあまりにすばらしいので、また9月からの伸びがすばらしいので、
みなさんにも見ていただいて、来年以降大学受験という人たちに参考にして
もらおうと考えました・・・
(訂正で書き加えた箇所は、「続き」の赤字の部分です。)
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そふぃさんには、後々多読歴と受験準備の様子を報告してもらうことになっています。
今回は9月からの変化があまりに大きかったので、受験直前にもかかわらず
いわば「特別緊急レポート」をお願いしてしまいました。
(こんなに長い報告とは予想していませんでした。そふぃさん、ごめん! )
問題はここ <http://kaisoku.kawai-juku.ac.jp/nyushi/honshi/06/k01.html>です。
[06年 京都大学(前期)]
【1】
(2)
リーズンの規則によると、導き出された結論が定義に基づいた論理的な思考
から得られるとすれば、正しいと考えられる。哲学者は数学を成功した学問の
見本と捉え、それを倫理的な面に当てはめた時の客観的な確かさを概算し
始めた。
(2009/09/28)(2)
上記の論理の規則に従うと、得られた結論が正しいと見なせるのは、論理的な一連の考えが主要な前提で成るものから導かれた時であり、その時のみである。数学を論理体系の理想であると考えて、哲学者は数学の客観的な正しさを倫理的な面にも何とか適応しようと試み始めた。
(2010/02/10)
上は昨年の9月終わり、下はきのうです。
最後の行の「適応」は「適用」でしょうね。それから、その2行上の「主要な」は
「しっかりした」のほうがいいでしょう。
で、簡単に上の最初の和訳までのそふぃさんの英語歴をまとめると、
2009年の4月30日にメール・フォームから、受験準備の助言をくださいと、
依頼がありました。浪人1年目がはじまったばかりのときでした。
そふぃさんは高校3年のときに5冊くらいのペーパーバックを読んでいたそうです。
でも受験が近づいたので、多読はそこで一旦中断して受験準備をしたけれど浪人
してわたしにメールをくれたわけです。
その後、毎週1回わたしの研究室に現れて、ゼロからやさしい絵本を読みはじめ
ました。そして9月のはじめからは毎週1回、志望校の過去問を解いた解答を
見せてくれました。わたしはそれを見てどこがどう具合悪いかを説明しました。
そのほかにもわたしがそふぃさんに助言したこと、ほかの受験生のみなさんにも
意味がありそうなことはいっぱいありますが、きょうはこんな大きな変化がありえる
のだ、という例示だけにしておきます。近いうちにわたし自身のまとめをかねて、
またそふぃさんやこれまでに受験指導した人たちの変化を踏まえて、
「多読的受験」の一応の集大成をブログに書きます。
(学校wikiができていればそこに保存?)
さて、上の二つの訳文を見れば違いは明らかだと思います。
うーん、それ以外に書きようがないくらいですが、あとでまた書きます。
その前にそふぃさんがコピーしてくれた受験関係機関の模範解答を見ましょう。
ちなみに...
■理性の原則によれば、特定の結論は、その結論が理にかなった初めの前提に基づいた一連の論理的思考から発している場合に、そしてその場合のみ、正しいとみなされるべきなのだ。哲学者たちは、数学を思考の雛型だとみなして、生活の倫理面においてもまた、数学の客観的な確かさに近いものを探し始めたのだ。(河合塾(総合教育機関・予備校)/2006年度大学入試 二次私大解答速報)<http://kaisoku.kawai-juku.ac.jp/nyushi/honshi/06/k01.html>■理性の法則に従えば、ある特定の結論は、正しい最初の前提に基づいた一連の論理的思考から生じた場合、そしてまたその場合のみ、真であると考えるべきなのである。哲学者たちは数学を優れた思考の手本と考え、倫理的生活の中にも数学の持つ客観的な確実性に近いものを探し始めた。(赤本教学社) <http://kyogakusha.co.jp/>
受験関係機関だから、直訳を避けられないのはわかりますが、よくわからない文が
続きます。たとえばどちらも原文の a given conclusion を「特定の結論」と
していますが、どう特定なのでしょうね? 特定ということばを何の意味もなく
使っているような気がします。
また initial premises を律儀に「初めの前提」、「最初の前提」と訳しているのも変。
前提は 「初め」あるいは「最初」に決まっているわけで、英文が initial とわざわざ
書いているのは、ただ sound premises と書くと重みが足りないと考えたから
でしょうね。そふぃさんは sound こそ捉えそこなったけれど、「はじめの前提」
のようなバカな訳はしなかった。そのこともわたしは significant だと思います。
ほかにもおかしなことはありますが、粗探しが目的ではないので、
この二つの点からも、河合塾と教学社の解答は穴だらけだということを明らかに
できたとしましょう。
粗探しよりも、そふぃさんがどうしてこんな見事な訳文を書けたか、です。
〈解答を作る過程〉
まず、一度文章を読む。この段階で要旨を把握する。次にもう一度最初から読み、傍線部に来たところで和訳を始める。
今回は(2)に焦点を当てる。
2009/09/28時点で reason deemed premises approximation certainties の5つを辞書で調べ、和訳した。時間は(1)-(3)で1時間以上かかったと思う。和訳するのに傍線部に囚われすぎていて、かなり苦労した覚えがある。しかも、解答に自信が持てなかった。いま上にある日本語を読むと、これは日本語なのかと思ってしまう。
次に2010/02/10の解答について述べる。今回文章を読んだ際に不思議に思ったのは、上記の5つの単語のうち、reason deemed certainties の3つをなぜ辞書を使わなければ分からなかったのかということだ。 certainties は
本を読んでいて(おそらく)勝手に身に付いた。 deemed は、こんな単語は覚えてもいなかったが、最初から文章を読んでいれば明らかだった。知識にない
単語は先入観がないので、(だいたいの)意味がスッと入ってきやすい。そして、今回は一読しただけで傍線部の意味が把握できたので、和訳の作業にすぐに入れ、また終わるのに大した時間はかからなかった(5分程度ではないか)。
上の (2010/02/10) の訳文を書くのに5分とは驚きですね。
よほどすっきり、はっきりと内容をつかんでいて、迷いがなかったのでしょう。
〈4つの和訳を比較〉
2009/09/28の解答は傍線部に囚われすぎて全体を把握できなかったので、分かりにくいものになった。それと比較すると2010/02/10の解答のよい点が見えてくる(詳細はさかい先生に任せます)。特に注意したのは、自然な日本語を書くことである(ここも)。おそらく、自分で4つを比較してみれば分かると思います。
非常にこまかいところのようですが、そふぃさんの大きな変化を象徴する部分は
(2010/02/10)の、
何とか適応しようと試み始めた。
の、「何とか」でしょうね。
この部分は原文では began to search for an approximation となって
います。そふぃさんの訳は大胆かつ明快です。 approximation をなんと
「なんとか」にしてしまった・・・ これはよほど深く話の筋が読めていないと
踏み切れる訳し方ではありません。その深さの訳文を書くまで5分しか
かからなかった!
(わたしの言い方では 5分しかかからなかったから 書けた!)
河合塾と教学社はどちらも 「近いものを探し始めた」 としました。
逐語訳でわかりにくくなるという典型ですね。
「なんとか」はあまりにうまいので、実は採点する英語の先生がそのうまさを正しく
評価できるかどうか心配です。少なくとも河合塾と教学社の先生が採点したら
まちがいなくかなり点を引かれるでしょう。
(さてそうすると、京大の英語の先生がどの程度の力があるかが、問題・・・)
〈多読は受験に通用するのか〉
〈4つの和訳を比較〉と書きながら時間の都合上何も書かずに終ったが、その分ここに時間を割くことにする。
受験生が不安になるのは(自分も含めて)、「どの本を読めば受験に役立つのか」「必読書はあるのか」「やっぱり環境問題についての本とかは読んでおいた方がいいのだろうか」といったことだろう。僕が京都大学の過去問を述べ25年分(前期・後期で2年分と数える)+予備校の京大形式の問題5年分を解いて感じたのは、自分の気に入った本を時間の許す限り読むのが最適であるということだ。つまり、「何を読んでもよい」「必読書などない」「受験に全く関係ない本でよい」となる。しかし、重要なのはなんといっても絵本だろう。なぜなら…と書きたいところだが、略。〈最後に〉
言いたい事をほとんど 略で済ませたが、最後に一つだけ例を挙げる。「多読だけでは入試に出る難しい単語が分からないので不安で、やっぱり入試に出る難しい単語は単語帳や辞書で覚えなければいけないのか」と思っている人たちへ。
単語帳を使っていた時代の僕の経験を書くと、単語を覚える→しかしそんな単語出てこない→が、偶然入試問題で発見!→嬉しい→その単語を覚えた気になる→しかし自分で英語を書く時、訳す時にはその単語は使いこなせない
となる。
なぜだろうか。
今にして思うのが、単語ばかりに固執しすぎて、その単語が使われている文やその前の文・内容、またその後の物語の展開に気を配らなかったのが原因ではないかということだ。つまり、単語帳を使うことによる効果はマイナス。
一方多読ではこれと全く逆のことになる。
知らない単語が出てきた→この単語のある文の前の内容は○△□…な感じで、後の内容は×◎…となるのか→それだと■▲▼…な感じの意味になるのかなぁ→そのまま読み進む→また出てきた→今回は前後の内容がこんな感じかぁ→またまた出てきた→あっ、これってこういう意味なんだな、こういう感じで使うのかぁ
となり、
ん?これはこの間納得した意味と違う感じがするぞ→おー、こんな意味があるのか、こんな風にも使うんだな
となる。
このように身に付けた言葉がいっぱいになれば、入試問題でも知っている言葉ばかりになる。たとえ難しい単語が出てきても臆さないようになる。なんてったって英語はほとんど基本的な言葉で書かれているのだから。この言葉を多読で身に付けていれば、知らない単語も本文を読めばすぐに分かるようになる。その具体例を10例以上挙げれば分かってもらえると思う。が、ここも今は
略 。以上で終わりです。題名を書き忘れたが、まあいいだろう。割愛した部分が非常に多いが、枠組みは大体できたと思うので勘弁してもらいたい。
勘弁しますよ、もちろん。受験直前の時間を割いてくれて、ありがとう。
単語に固執しすぎるとよくないという部分について、言いたいことはいろいろあります
が、それはまたいつか書くとして、わたしも「略」!
なお、わたしはただ褒めているわけではないですよ、念のため。
9月の和訳はそふぃさん自身も書いているように、日本語とは思えません。
9月から4ヶ月ちょっとで、これほど大きく変化したことの驚きを伝えたいのです。
そふぃさん、いつかじっくり多読的受験について書いてください。
そして、きのう言ったように、今度はそふぃさんが多読的受験指導をはじめてください!