3月11日が近づいてどうしても思い出すことがあります。
(そしてそれが「流される、流されない」に関係があるのです。)
きっとみなさんもあの日の行動は何もかも、細かいところまで覚えていることでしょう。
わたしも時間をおって説明できるくらいはっきり覚えています。
わたしはあの日午後2時46分には大学の6階の研究室にいました。
退職のために片付けをしていたのだったと思いますが、突然揺れが来て、
それほどひどい揺れとは感じませんでしたが、時間が長かった。
それからしばらくは事態の深刻さがわかっていませんでした。
時々余震が来て大きく揺れる中、6階の事務室でテレビを観て、
少しずつ状況のenormityが分かってきましたが、それでもまだ深刻さの程度は
わかっていなかった・・・ 京王線が運転を見合わせているということがわかった
時も、わたしは車だからいいや、という程度の反応しかしませんでした。
だからでしょうか、わたしは大学の同僚二人を車で新宿まで送ることを申し出ました。
4時半か5時だったと思います。一人は和光市、一人は日本橋に自宅がありました。
甲州街道はさすがに調布付近でも渋滞が始まっていたので、
せまい裏道を何度も何度も曲がりながら新宿方面へ近づいていきました。
ところが新宿まで半道というあたりで、ラジオで新宿駅へ行っても電車がまったく
動いていないことを知ります。和光市まで送ることにして、環状8号線に出て、
(7号線だったか?)
北上。かなりの渋滞ではあるものの、なんとか3時間で和光市のお宅に届け、
そこからもう一人の同僚を自宅まで届けるために、日本橋へ向けて池袋へ向けて
出発。
そこからは都心に近づくにつれてひどい渋滞になっていきました。
最初は普段の渋滞のひどい程度。次に5分間で50メートルくらい前進、
次に5分間で5メートルくらい、最後はお茶の水駅付近で5分間に2,3メートル。
ここで、地下鉄が一部運転を再開したことを知って、同僚は車を降りて
地下鉄の駅へ・・・ この時深夜12時頃だったでしょうか。
わたしはすでに立川の自宅に帰ることはあきらめて、四ツ谷の日本語多読研究会の
事務所に電話して、泊めてもらうことにしました。研究会のメンバーは仕事で
集まっていて帰れなくなり、全員泊まっていました。
そこからがまた大変・・・・
お茶の水駅と四ツ谷駅をほぼ直線で結ぶ外堀通りの混み方と言ったら・・・
何分で何メートルか考える気力もなくしました。ただ、いらいらするだけ。
なんとかこの渋滞を抜け出せないものか・・・
一度も行ったことのない都心の一般道路を、曲がりなりにも和光市から
お茶の水までたどれたのは、アンドロイドのタブレットPCがあったからでした。
そのPCにかなり素朴なナビゲーション・ソフトが入っていて、それによると
お茶の水駅から四ツ谷駅の最短ルートは外堀通りなのです。
そこで、ナビゲーション・ソフトの指示を無視して、わたしは車を外堀通りと
交差する道路へと向かわせました。決して裏道というような狭い道路では
ありません。ところが・・・
なんとそこから先はがらがらでした。ほとんど車は通りません。
わたしは迷いに迷いながらですが、外堀通りを何度か縫うように横切りながら、
目的の四ツ谷駅近くまで30分ほどで到着しました。
それは深夜1時過ぎだったと思います。
朝方起きて、改めて立川へと向かったのでした。
さて、ここからが「流される人々」の話です。
おそらく外堀通りを隙間なく埋め尽くしていた車、車、車は、ナビゲーション・
システムに従っていたのでしょう。ナビ・システムを信じ切って、
ほかに道があることなど思いも寄らなかったか、
あるいは滔々たるナビ・ルートの流れを外れることが怖かったのでしょう。
あの羊たちの群れは、わたしには試験や資格や学歴に囚われて、
なんとか流れに乗りたい、流れから外れまいとするたくさんの人と同じに見えます。
そんなものからひょいと外れれば、行きたいところまでさっと行けるルートが
あるのに・・・
もちろんさっと行かなくてもいいのですよ。ゆっくり景色を楽しみ、途中下車を
堪能しながら行ってもよいのです。
一方、流されたくてお定まりのルートに群がった人たちは、まったく流れなかった・・・
わたしが3月11日のことで一番よく覚えているのは外堀通りの混み方と、
がらがらの脇道の、あまりにくっきりした対照です。