論文と口伝えについて 補足
2010年10月24日
カテゴリ : 多読亭日乗, 多読と受験, 多読支援
「外資系企業と多読 多読は口伝えで・・・」という記事の中でわたしは次のように
書きました。
多読は論文で広がるのではないだろうと思います。
口コミで広がるのだろう、それ以外の広がり方はむなしいと、
「まんじゅうこわい・・・」の記事とちなつさんの報告の記事を書きながら
つくづく思いました。
これは昔からわたしの持論ですが、このままだと不正確なので、補足を・・・
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論文というものの限界を感じたのは30年前にさかのぼります。
もともとわたしの専門は児童文学でしたが、文学に論文というのは似合いません。
瀧口修造という人は「詩の批評もまた詩でなければならない」という意味のことを
言ったと聞いていますが、これは文学全体についても言えることだと40年前の
わたしは思っていました。以来文学についての論文は書いていません。
(もう一つは、大学に入ってすぐいくつか論文を書いて、
自分にとっても、わたしに給料を払っている人たちにとっても
どれほど空しいかを感じたせいでもあります。
さらに、英語関係の学会というものに参加してみて、
またしてもなんという茶番!と驚嘆して論文不信は助長されました。
そしてさらに、わたしは大学そのものにあきれてしまい、
絶対教授になんかなるものかと思ったことも論文と縁のない暮らしの
大きな理由であります。)
その後、わたしは学会に参加するのをやめました。
日本多読学会ができてどうしても会長になれというので、なりましたが、
2年という期限をつけて、会長をやめました。
また、学会の創立集会の挨拶で、「学会誌」などを出すようなら、
わたしは会員をやめると宣言しました。わたしが会長をやめるとすぐに
学会誌を出すという話になり、わたしは会員もやめました。
と、まあ、そのくらいわたしの学会、学界、文科系の論文不信は徹底している
わけでありますね。そこから、最初の引用のような発言になった・・・
ただ、論文というものに使い道がないとは思っておりません。
その点を補足しようというわけです。
論文の効用はいわば 撒き餌 です。
大物を釣るためにばらばらと撒く小魚です。
これを撒いて、できるだけたくさんの魚を集め、その中から本当に
「食いついてきた大物」
を釣り上げる!
世の中、数字狂い、試験狂いです。
多読を英語学習と思って始める人が多い方が、
おいおい多読は読書と悟る人が増えるように、
先生方に多読に関心を持ってもらうためには、
試験や統計の数字で先生方を釣ります。
たくさん釣れると、その中には多読と多読支援の魅力に食いついてくる人が
5%程度いるように思われます。多読も多読授業もきわめて
robust and resilient つまり しなやかにしてしたたか でありまして、
ただたくさんのやさしい本が置いてあるだけで、何人かは多読をはじめるし、
数字狂いの先生が多読の本当の魅力に目覚めることもあるのです。
わたし自身、豊田高専の西沢さんたちの論文は何度も使わせてもらっています。
撒き餌としての論文の役割はきわめて大事です。
撒き餌で集めて、口伝えで本当に食いついてもらう・・・
(ただし、わたしは撒き餌には参加しません。
多読と多読支援の魅力そのものをできるだけたくさんの人に見せる役を
果たしたいと思っています。それぞれやる人が必要でしょ?)
実は8月の終わりに大阪で講演したあと、近畿大学の高瀬さん相手にまた
「論文=撒き餌」を論じました。高瀬さんは大人ですからね、わたしの言うとおりと
納得してくれたかのようでした。
でも高瀬さんが本当に納得したかどうかはわかりません。
高瀬さんとは同じ議論をおそらく10年近く繰り返しています。
わたしにしてみれば、人間も、言葉も、読むこともまだ解明されていないのに、
いったいどんな「論文」が可能なのか?
どんな「データ」が複雑きわまる人間や言葉や読むことを裏付けられるのか?
データより、生徒の表情の方が確かではないのか?
「先生、この本の続きないの?」と注文をつけてくることの方がずっと確か
ではないのか?
頼りになるのは勘だけではないのか?
ま、わたしもどうしてこう少数意見にばかり傾くのでしょうね。
とは思うものの、わたしが自分の目で見て、自分の耳で聞いたことが
少数意見の方へ導くのであれば、そちらに赴くことになんのためらいもありません。
わたしはわたしの勘にしたがいます。