The New Yorker誌のブログから プラハの春

2013年5月 6日
カテゴリ : 多読亭日乗

・・・といっても覚えている人は少ないでしょう。

ドプチェク も チャスラフスカ も?

「プラハの春」と呼ばれるチェコスロバキア解放への動きは1968年の1月に始まり、8月にはソ連の率いるワルシャワ条約軍の侵攻で抑え込まれました。

The New Yorker誌の Page Turner というブログで、アメリカの小説家 Philip Roth (わたしは読んだことはありません)が、社会主義体制下のチョコスロバキアで知識人たちがどうしていたか、振り返っています。

社会主義体制はこれまでのところどれも全体主義だったようです。労働者のための体制どころか、結局独裁政党による、独裁政党のための政治が行われたらしい。

(しかも政党から個人崇拝へ、さらには一族支配にまでなることも! 日本も着実にその方向に向かっているようです。育ちよりも生まれが大事なところは封建体制さながら!?)

この記事に目が留まったのは、たまたま今はナチの時代やペロン大統領の親ナチ体制を背景にしたハードボイルド小説を読んでいるせいかもしれません。

けれども、そういう体制の全体主義を「硬い全体主義」とすれば、日本は「柔らかい全体主義」と言えないでしょうか? しかもそれがこの上なくうまく作用していて、みんながみんな自分の意思で動いていると思っているのに、実は一つの方向に動かされ、流されている。

このごろこのブログの記事はどの話題も関わり合っているようです。試験や資格に代表される数字の支配も、教科書やNHKにあらわれた学校英語の支配も、毎日の暮らしのあちこちにしみこんだ根拠のない「常識」も、どれも柔らかい全体主義が静かに巧みにわたしたちの骨にまで浸み込んだ結果のような気がします。骨の髄からわたしたちを震撼させる発見、体のすみずみまで浸み込んだ毒を洗い流す経験とはどんなものなのだろう?