語数より冊数? やさしい絵本、audiobook、ドラマ、映画、アニメの役割について

2013年3月 1日
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非常にタイミングよく、「言葉は活字ではない」という「スローガン」にぴったりの
ブログ記事を見つけました。

語数を目安にすることにはもう一つ具合の悪いことがありそうです。
(ちょっと迂遠、かなり牽強付会、我が田に水を引いているかな?)

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まず最初に断っておきますが、本はすばらしいものです。
読書も一生の趣味とするにふさわしい、いやそれ以上に大切なものです。
わたしはそのことを否定しているのではないですからね!

ただ、わたしたちが読書を楽しむ時に、文字だけを見ているのではないだろう、
と思うのです。文字を読みながら、場面を思い浮かべ、登場人物の人柄を推し量り、
台詞の調子やそれを口にする人の表情を感じながら読んでいるはず・・・

こう言い換えてもいいかもしれない。いわく

「読書は文字だけの体験ではない!」

文字を手がかりに、読者はそれまで生きてきた体験のすべてを再現して、
物語や知識を読み取っていくのですね。

だとすれば、本を読む時に本の内容がなんらかの形で「体験できたら」
すばらしいと思いませんか? いや、日本語で読書しているときには
きっと文字を読んでいるだけではない「体験」をしているのではないだろうか?

外国語の場合も、たとえば、だれかが朗読しているように「声」が聞こえてきたら
きっと日本語の読書に近づきますね。

そして逆の例もある!

わたしの多読授業の最初の方の生徒に Tomohiro Seki くんという人がいます。
(facebookで検索すると詳しく見ることができます。)
この人は多読をはじめてまもなく「英語の本を読んでいると、場面が無声映画の
ように展開する」と言ったのです。これもうらやましい話です。

「Julie」さんの「脳内イギリス人」と関さんの「無声映画」、この両方が備わったら
(知る人ぞ知る)Ink Drinker のようなことになりませんか?!

ま、そんな「境地」を報告している人はだれもいないし、わたしなどは
脳内音読はやっていますが、それはたぶん自分の声で、平坦で、ただ訥々と
音読しているだけ、場面なんぞは切れ切れに、ところどころ絵が浮かぶだけで、
常に不完全、白黒というよりぼやっと灰色・・・

ま、でも読書は楽しんでいるのだから、よしとしましょう。
それに、日本語の読書も同じようなものなので、たいして不都合はない。

ただし!!! 日本語の読書の時には日本での暮らしが大いに役立っているはず。
外国語の場合は「暮らし」こそありませんが、これからは映像も音声もふんだんに
「体験」できます。

わたしの場合、外国語を読むことで世界が広がりましたが、
これからは音声と映像で深めていこうと思います。