いわゆる「GR」の功罪について・・・

2013年4月12日
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これは微妙な問題だということは最近どこかで(きのう?)書きました。

いろいろな意味で微妙なのですが、この春休みに、まったくちぐ方面から二人の
英語の先生がNPO事務所に来て、よく似た話をしてくれました。

その上、この記事の「続き」に載せるような感想が T さんから寄せられるに至って、微妙だけれどもはっきり書いてしまおう・・・ということに・・・

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GRの再検討が微妙な問題で、もう何年も前から頭から離れないのになかなかこんな風に書き始められなかった理由はいくつかあります。

その中の一つ・・・

NPO多言語多読では前身のNPO日本語多読研究会以来10年間にわたって、日本語多読用に段階別読み物(Japanese Graded Readers 略して JGR)を制作してきました。その数約100冊になっております。

自画自賛ですがこれは大変なことなのです。
でも、英語のGRに「罪」があるとすると、JGRも再吟味の対象とせざるを得ません。GRの本格的な吟味が微妙な問題であることはおわかりでしょう。

しかしこの点についてはこの記事の最後にもう一度しっかり考えるとして、まずは英語に限って考えます。

GRだけだと具合の悪いことについて、
もう少し言えることがあるかもしれません。
下記は[わたし]の感想です。

ORTや子どもの本で出てきた語は、
どうも下記の理由で、[わたし]の印象に強く残っているようです。

●受験対策で覚えたことのない語が、未就学児童が読む本にたくさん出てくる。
●受験で覚えた意味と、どうも違う意味で出てくる言葉もあるみたい。
(=ショック。受験勉強や独学で学んだ英語はなんだったのか?!)
●「ショック+絵」の効果で、言葉や行間の印象が強く残る。

この3点が、GRだと弱いです。ほとんどないかもしれない。
GRで得られる感覚(利点)は、昨日お話ししたとおりです。

●すらすら読める快感
●1冊読み切る達成感
●ペーパーバックに近づく満足感(愉悦)

学校英語の名残で「すらすら読める」ところがGRの功でもあり罪でもありますね。

日本語GRのところでまた書きますが、GRにはGRの居場所があります。
功と罪をちゃんと意識してうまく使えば、多読には必須の蔵書となるでしょう。

(外国語獲得にきわめて害になる利用の仕方についてはあとで・・・)

これらは、多読を続ける原動力にはなるけれども、
「私が受験で勉強してきたことは、意味があった。
だって、ペーパーバックが読めるもん」という、
tadokuで早々にぶっ壊したほうがいいことを、
かえって「守ってしまう」ことになりかねません。

(ここですね。GRの害のいちばん大きな問題は・・・)

シドニィシェルダン(大人向けPB)なんかを読み始めちゃうと、
ますます「3歳児が読む絵本に出てくる言葉がわからない自分」
を認めたくなくなる可能性もあります。
(=絵本に戻れない!)

そんなふうに、自分を振り返って、思いました。

やっぱり、絵本のほうが、いろんなショックが大きいので、
ゼロに戻れる感覚を味わうことができます。
洗い流される感覚が、あると思います。

(これは劇薬シャドーイングの起こす変化とよく似ているかもしれません。)

だから、そのあとにしみ込む英語の感覚も、
素直に味わうことができると思います。

アルクの連載を通して数百万語は読んだはずですが、
今、こうして絵本に戻れることができて、よかった。ラッキー♪
…という気分です(笑

American Girlなんか、前に読んだ時より時間もかかるし、
どうもわからない単語もたくさん出てくる感覚なのですが、
以前にGRから数百万語を読んだ自分は、
「このレベルは読めて当たり前」と信じ込んでいて
そこに隠された言葉や意味を、発見できる余裕がなかったのかも。

…となると、絵本に戻り、絵を見る習慣をつける意味が
どれだけ大きいかというのがますますわかってきて…

面白いですね(笑
こうして整理してみるまで、気付かなかったことです。

ゼロに戻れる感覚を味わえたというところが T さんのすごいところだと思います。何百万語も読んでからゼロに戻って、それで「よかった」と思えるというのはいわば「成功を失敗の元にしていない」柔らかさがあるのですね。

「町の名前をひとつ」をずっと読んでいる人がいるとしたら、わたしの言いたいことはきっと百も承知千も納得、もう飽きた、と言うかもしれないので、GRの功罪の話に移ろうと思います。

ただ英語GRの問題点はおそろしく長くなる可能性があるので、次の記事にします。
ここではこの記事のまとめとしてわたしの考える日本語GRの抱える問題と、その解決の方向について簡単に触れておこうと思います。

* たぶん、日本語GRの害はそれほど大きくない。
そのいちばんの理由は皮肉なことに日本語の文法体系が英語ほど研究されていないことだとうと考えています。そのために、英語GRの場合ほど文法制限が整っていない。だから「段階別」の持つ意味がそれほど大きくない。

* 今後の課題は Longman Literacy Land や Oxford Reading Tree の日本語版を作ることです。しかしそれには Roderick Hunt さんや Alex Brychta さんにあたる人を見つけなければならない。わたしはみなさんの中にそういう人がいる、あるいは知恵を合わせればそれ以上になると思っています。いつか、みんなで作ろうね!

さて、次回は英語GRの大きな問題について書きます。