英語多読から国語へ・・・
2013年3月 7日
タグ: The Independent Learner, 多読の届くところ
多読という方法は英語だけに意義があるのではないと、多読三原則を言い出した直後から考えていました。その意味では、多読は方法ではなくて、考え方だったと言えるかも知れません。それもごくはじめのうちから。
わたしはこの考え方を数学にも国語にも理科にも社会にも援用できるのではないかと夢想して、数学の先生にも国語の先生にも働きかけたことがあります。それで、九州のある学校で、国語の先生が、わたしの勝手な表現では「多読的考え方」を国語の授業で試してくれました。
それを「さめちゃん」が報告してくれたメールの一部を紹介します・・・
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よく多読の話を聞いて下さる国語科の同僚がいます。
最近「長文問題集の入試長文多読」の取り組みについて話してから彼女も少しそれらしきことに取り組み始めたそうです。対象は中2です。
さめちゃんは英語の先生で、受験準備の一環として「入試長文多読」を試してきました。これはわたしの表現によると「絵本の土台の上に過去問で柱を立てて、直前の年度の入試問題を大学横断でたくさん解いて屋根を葺く」というやり方にあたります。(くわしくはいずれ・・・)
プリントに出された文章を読んで要約や感想を書き、他に本や新聞などを読んだらその感想を書く、という週末課題を始めたそうです。一度その宿題を見せてもらいましたが、生徒たちは自由に意見や感想、要約を書いていました。新聞や本を読んだ感想も義務でないのに結構な生徒たちが書いていました。
「教師が画一的に縛ることをやめたら生徒は自由になって埋もれていた力を発揮する?」
「走れメロスをクラスで音読多読」:精読に時間を割くのをやめて生徒と一緒に音読を続けたそうです。期末考査で60字の記述問題を出したところその問題が「白紙」約120名中たったの10名しかいませんでした。答案を見せてもらいましたが、よく書けています。成績が高くない生徒も立派な文が書けていました。国語の記述と言えばあまりに書けなくて中高時代苦手だった記憶がありますが、そんな風にさらっと作品を自由に楽しめる時間が与えられていたら、私も書くのがもっと好きになっていたかも、、、
「精読を捨てた方が生徒達はのびのびと作品を楽しめ理解できるのかも?」
地方新聞のコラムを読んでその書き写しあるいは要約と感想を書く、という週末課題を出したそうです。いつもは宿題なんかまともにやらないという生徒が真面目に取り組んで出してくれたと言って喜んでいました。地方新聞のコラムを集めた月刊誌があるようですね。天声人語みたいな大手新聞社のコラムと違って、地方なりの味が出ていて内容が面白いようです。
「よい作品の力でしょうか?」やっぱり生徒たちは、画一的に縛られない時、よい作品に出合った時、自分の気持ちを表現できる機会を与えられた時に輝くのだなあと思わされました。
Fluency First、歩みはゆっくりですが、国語科にも広がり始めました!
さめちゃんは多読の考え方を Fluency First と表現しているようです。
そして、その意図は上の 「・・・・」 の中に窺うことができます。
Fluency First による生徒の変化は英語でも、国語でも、変わらないようです。
(けれども、こんな風に生徒の気持ちを第一に尊重することは、普通の先生方(!)には非常にむずかしい・・・ こわくてできない、と言ってもいいでしょう。
(mangaを授業で使えない先生方と同じです。生徒を縛らないことも、生徒を信頼しなければ、とても踏み切れないのです。踏み切った先生の勇気(度胸? 大胆さ? 向こう見ず)に乾杯!)
さめちゃん、ありがとう! そして同僚の国語の先生、ありがとう!!