8月以来の講演会ラッシュでパワーポイント作りに追われ、そこへコンピューターの
不調が加わって、講演会+ワークショップの報告がすっかり遅れております。
NPOの活動が東京だけではないことをお知らせしたいのに、
(そして聞きたい人がいるかもしれないのに)
申し訳ないことです。
と思っていたら、なんとやったばかりの大府市の講演会+ワークショップからうれしい
知らせが届きました。それを先回しに(?)します。
おおぶ文化交流の杜図書館に通える人はとても幸運!
8月以来の講演会ラッシュでパワーポイント作りに追われ、そこへコンピューターの
不調が加わって、講演会+ワークショップの報告がすっかり遅れております。
NPOの活動が東京だけではないことをお知らせしたいのに、
(そして聞きたい人がいるかもしれないのに)
申し訳ないことです。
と思っていたら、なんとやったばかりの大府市の講演会+ワークショップからうれしい
知らせが届きました。それを先回しに(?)します。
おおぶ文化交流の杜図書館に通える人はとても幸運!
記事が遅くなりました!
第3回図書館多読シンポジウムが開かれる多治見図書館からの報告です!
まったく一緒に語り合う仲間がいるとどこまでも楽しい!
トップダウンに直接つながる部分だけを抜き出します。
「ことばは、世界を、秩序あるものとして、みるための、めがねみたいなものなんじゃないかと、感じている。」
元のメールはくわしくなぜこんな風に感じるかを書いてあります。
ことばがないと、世界を作っている(?)さまざまなもの、
つまりHさんにとっては、光や音や色の境界線が、微妙で、互いに入り交じって、
感じ取ったのは、光だったのか、音だったのか、あるいは、色だったのか、、、
さらには、温度だったのか、凸凹だったのか、圧力だったのか、なんだったのか、、、
振り返っても、よく、わからなくなっていることがあるそうで、
ことばはその世界を見やすくしてくれるめがねということのようです。
うらやましいですね・・・
わたしが見ている世界はいつも秩序だっているようです。
Hさんのような感じ方の目が見る「ばらばらな?世界」に憧れさえ感じますが、
ことばと世界の関係はそういうものなのかもしれませんね。
Yさんの言う「情景」を作っているのがHさんの「世界」で、
どちらもことばとは(多かれ少なかれ)独立しているのかな?
Hさん、貴重な感想をありがとう!
いよいよウンチクもウンチク、哲学の世界に入ってきたようですね。
哲学には大いに疑問を感じていますが、論理を道具とした遊びとしては
おもしろいです。(その意味では文法と哲学は似ている!?)
もっと意見交換をしましょう。
YさんからFacebookでメッセージがありました。
これが「ことばと考えとどっちが先か?」問題への大きなてがかりになる?
「多読・Tadokuはトップダウン」で、学校英語は「ボトムアップ」という見方は
一部の人にはとても分かりやすいだろうと思います。この話題はしばらく
続けます。たくさんの人がトップダウンが多読・Tadokuの特徴なんだと
納得してくださるまで・・・!
そこで大切なのはみなさんからの意見や疑問--新たな切り口をもらいます。