をさなごのやうに

「絵=映像」から始まる パピイさんのころも

パピイさんから早速返事がありました。

酒井さん、

昨日のブログの話題を読んで、とても懐かしい気持ちになりました。

小学生になって(1962年)、これからどんなことを習うのだろうと、
わくわくしていたら、国語の教科書の最初のページには、
文字が一個も無くて、とてもがっかりしたことを思い出しました。

その絵は、公園で子供たちが遊んでいる風景でした。
そう、二つ目の写真のような感じでしたね。

腑に落ちない私は、後日先生に聞いてみたところ、
絵を見ながら、みんなでお話をするために文字が無いとのこと。

英国だけでなく、自国語の教育には、どの国も一生懸命取り組んでいるようですね。

☆パピイ

パピイさん、ありがとう!
1962年というとずいぶん最近まで絵だけだったのですね。
最初の記事の教科書は昭和30年というから、1955年だったらしい。
みなさんの小学校入学時の国語の教科書はどうでしたか?

今はどうなんだろう?

と思っていたら、MIKIさんからツイートがあり、
東京書籍の 「新しい国語 1年生上」でも、はじめのうちは絵だけだということが判明。

まてよ・・・? 字が読めないはずだから、ということか?
そんなすごいことではないのか?
いや あいうえお表から始めるなんていうことだってありそうだから、やっぱりすごい?

「絵=映像」から始まる 古き良き日本でも?

かつて、Oxford Reading Tree を初めて見たときに、
読書支援のために作られた絵本のはずなのに、
字のない絵本から始まっている! ととても驚いたのでした。

もちろんわたしが分かっていなかったからで、読書の楽しみは
自分から物語の世界に入っていく ことに始まるということを Roderick Hunt さんや
Alex Brychta さんはよく分かっていたのですね。
絵をよく見て、自分で物語を 作る ようにと、文字を入れていない!

最近になってやっとわたしも、そのことが分かってきたという気がします。
ことばは文字ではない・・・

NPO多言語多読の理事川本さんが
「弟が小学校の時の国語の教科書が出てきた」と言って、事務所に持ってきてくれました。

驚きました。国語の教科書なのに、Oxford Reading Tree の絵本と同じで、
はじめは文字がない!

1国語教科書

 

国語教科書2

こんなすばらしい国語の教科書を作った人たちは・・・

国語教科書3

いま小学校1年生はどんな国語の教科書を与えられているのか?

「絵=映像」 は多読の 「底=土台」? 

一つ前の記事で「わたしたちは多読の底にたどりついた」と書きました。
底というのはわたしの実感ですが、
(12年かけて、文字から音へ、絵へと、ことばに対する考えが 深まって
きたという気がするので)
普通には底というより土台のほうが分かりやすいかもしれません。

底か土台かはたまた基盤か--それはともかく、言葉は文字である以前に、
音であり、場面であり、気持ちであり、考えであるのですね。

けれども日本では漢語以来 外国語=文字 と思いこんできた。
(それ以外に外国語に触れる機会がなかったので)
最近 文科省では外国語の 音 をこれまでよりも重視しようとしていますが、
どうも不徹底に見えます。音を成立させている場面も気持ちも無視されています。
音声英語! というお題目を無理矢理唱えているだけのように見えます。
ことば全体を捉えた上で音の位置を意識しているわけではないのですね。

わたしが考えることばは氷山のようなものです。

*海面上に出ている部分が 音としてのことば

*海面下に広がっている全体の9割は 気持ち/考え/物語/世界観

*そしてことば全体が浮かんでいる海は 場面/世界/状況

文字はせいぜい氷山の上に降った雪というところ・・・

したがって、ことばを 世界 や 物語 や 場面 や 気持ち や 考え から切り離して
理解しようとしたり、仕組みを探ったりすることは非常に無理があると思われます。
(文法を探る試みがいまだに成果を挙げていないのはそのせいかもしれません。)

この「ことば観」は実に多くのことにつながっています。たとえば
*言葉の獲得を文字だけからはじめることはあり得ない
*「をさなごのやうに」外国語を獲得することが可能だとすれば、
音と絵や映像から始める
(ただし、をさなごではない人が「をさなごのやうに」なるにはさまざまな工夫や
仕掛けを必要とします。それがgraded readersであったり、劇薬シャドーイング
であったりするのですね。)
*文字ばかりの本が「読める」ためには、音と絵や映像をたっぷり体に染みこませて、
文字を見ただけで音や絵や映像が思い浮かぶようになっていることが前提

最後の点をこれからしばらく記事にしようと考えていますが、
一言で方向を書いておくと、graded readers には絵が足りない、ということですね。
お楽しみに!

わたしたちは多読の底にたどりついた katobushiさんの感想から・・・ 

katobushiさんのツイートを引用したら、katobushiさんからメールがありました。

ブログ拝読致しました!
引用していただいてほっとしています!あのころの報告は本当にまずかったです!

ブログの感想です。。。
現象的なことですが(そう、本当にしょーもない現象的なはなしです)、学校英語や歪んだ学習意識をどうかいくぐるか、という視点では、「年齢」という尺度はあっさり「レベル」に利用されるだろうと予想します。

参ったな、でもそうでしょうね、「あっさり「レベル」に利用される」でしょうね。
一つだけ希望があるとすれば、年齢は一人一人のもので、
「レベル」は一人一人の外にあるもの--

そういうことを周到に避けるにはどうするか?
僕はこんなふうに思います。多読初期の人に「辞書を捨てろ」というのと同じ意味合いで、「レベルを捨てろ」「(狭義の)言葉を捨てろ」といえばいい!だれも相手にしてくれないでしょうか。。。

「レベルを捨てろ」--なるほど、です。

先生は「氷山の一角」って言いますよね。字幕なし多観を「1%も聞き取れないもの」からはじめることが出来れば、文字や、文字に乗っ取られた音から離れて、海面下で起こっていることを感性でとらえられるかもしれません。慣れてしまえば、そんなに難しいことじゃないです。実はかなりの部分を受けとれます。音楽家と音楽で、絵描きと絵で対話できるのと同じことです!そこが一番大事!!

人によっては「大人向け」や「劇薬」の方がいいかもしれませんね。「子供向け」は「レベル」に組み込みやすいですからね。そして「多読」よりもより一層「投げる」ことを強調せねばです! YYさんが「Third star」で経験したようなことが起これば、「レベル」や「学校英語」に対する強力な対抗手段になり得ませんか??(やっぱり最後までしょーもない話でした。。。)

しょうもなくなんか、ないですよ。
多読のいちばん底にわたしたちはたどりついたのだろうと思います。
ここをわたしたちの新しい旅の出発点にするのですね。

追伸
「本当にまずかった」なんて心配は無用です。
いや、無用じゃないかもしれないけれど、あっちへふらふら、こっちへふらふらは
「未知の道」を踏みならして行くときは仕方ないんじゃないだろうか?

わたしなどはそういう「まずいこと」を山のようにしてきた。
100万語を提案しました--よかったような、悪かったような・・・
YLに関わってしまった--悪かったような、よかったような・・・
Graded Readers をみなさんに紹介してしまった--よかったような、悪かったような・・・
挙げはじめればきりがありません・・・ これからもいっぱい「まずいこと」をするでしょうね。

字幕なし多観について katobushiさんのツイートから

まず、katobushiさんのツイートを引用・・・

僕が字幕なし多観をはじめたころのORTのような動画から、というコンセプトはよくなかったと反省しています!字幕なし多観のいいところは、レベルの概念を捨てやすいところだと思います!

字幕なし多観の効果は聞き読みよりもっと強力だとおもいます!プラス、字のない絵本から始めるみたいに1%も聞き取れないものからはじめることをお勧めしたいです!

レベルの概念を捨てる・・・大事件ですね。
これまでの多読はレベルの概念は大事だということで始まり、進んできました。

レベルの概念を使って入り口を入りやすくする--これはうまい作戦だったと思いますが、
場合によってはうまく行き過ぎていつまでもレベルから抜け出せないことがあります。
また学校などでは試験や成績や点数、数字に反映しやすいので、
そもそも抜け出す気がないのが普通・・・

わたし自身がレベルという考え方から抜け出すのにずいぶん時間がかかりました。
最初から警戒していたのに時間がかかったのだから、レベルや進度や理解度といった
考え方のしつこさは身をもって体験しています。

ではレベルの概念を捨てて、代わりにわたしたちの歩みを確認するには何がいいのか?
わたしは年齢だろうと思います。「をさなごのやうに」始めて、少しずつ世界と物語を
理解していく・・・

その場合、katobushiさんの言う「1%も聞き取れないものからはじめる」ことは、
赤ちゃんが自分の周囲の言葉や状況をほとんど理解できないところから成長していくことを
真似することになるでしょう。

つまり、最初は 見る・聞く・泣く(もごもご?) から始まって、一語文で話すへ、それから
読む・書くへ というところでしょうか? もちろん大人が同じような過程を経るのかどうか、
それはみなさんの報告で少しずつ明らかになっていくことでしょう。

(ついでに言うと、その過程に学校英語がどう関わるのかも、明らかになっていくでしょう。)