をさなごのやうに

「絵=映像」から始まる 多読から多読的精読への道

独眼龍さんがあるとき(おそらく2、3年前?)、

「それは多読から多読的精読になっていないということですね。」

と言ったことがありました。わたしはそれ以来ずっと考えてきました。
どういう場合に 多読から多読的精読にならないのだろう?

今年の初め以来、そのことにある見当がついたように思っています。

「絵=映像」の吸収が足りない場合ではないか?

(「精読といえば文法分析だろう、したがって、多読に文法の勉強を加えれば
多読的精読に変化するはずだ」と考えるのはほとんど陋習であり、
たとえ陋習とまでは言えなくても、間違いなく短絡的です。
そんな表面的かつ簡単なことならなら2年も考えなかった。
文法による精読なんてものはまったく無力。というより害があります。
その点については「さよなら英文法 多読が育てる英語力」(ちくま学芸文庫)
を参考にしてください。文法を通じた精読では、どんなにがんばっても
あの本で採り上げた英語の先生たちや受験専門家たちの理解
(すなわち無理解)にしかなりません。)

つまり、なんと1年半前にいくつか書いた「いわゆるGRの功罪」という話題に
見事につながっていました。そしてなんとSSS時代の多読仲間の現在にも
つながっているかもしれません・・・

1年半前に書いた記事はおいおい投稿しますが、
絵や映像の吸収が足りないということについては、整理し切れていないので
メモ風に・・・

*GRは絵本ではなくて挿絵本。
→ことばにとってきわめて大事な「世界や状況や場面」を体感しにくい。
*GRは学校英語に近い。
→「生のことば」に対する勘が養われない。
*学校英語をお勉強した人には、分かるところが多すぎる。
→分からないことに耐える癖がつきにくい。
*学校英語の誤解が修正されにくい。
←絵があれば誤解が修正されやすい。
*GRも絵本も「やさしい英語」で書いてあるが、「やさしい」の意味は全く違う。
→GRは学校で英語を勉強した大人向けにやさしく書いてある。
→絵本は英語が母語のこども向けにやさしく書いてある。

ほかにもあるはずですが、ここはメモなので、またいつか追加します。

GRから始めて、そのまま挿絵本に移り、ペーパーバックに手を出すと、
いちばんやさしい、つまりいちばん基本的な、語や、語のつながりについて、
十分な理解と吸収をしないままになってしまう可能性があります。

そこで、たとえば Catherine walked into Wim’s office.  を
「事務所まで歩いて行った」と考えてしまいます。
600万語読んだある人は音をたくさん聞いていて、想像力も豊かなのでしょう、
「into と書いてあるから、『乗り込んだ』んでしょ。」と言いました。
「こんなのが多読的精読」です。

つまりSSS掲示板の時代には絵本の役割が小さかった。
そのために、ペーパーバックを楽しめるようになった人たちの中には
うまく多読的精読に入っていったタイプと、もう一息入れないでいるタイプが
いるのではないかと、しばらく前からわたしは考えています。
(もちろんその間にさまざまな度合いのタイプがありますが。)

*最初のタイプは、想像力が豊かだったり、GRからORTに戻ったり、
絵本を堪能したり、朗読や映画や海外ドラマを多読と並行して
楽しんだために「文字だけではない理解」にまで進んだタイプ。

このタイプはいい加減な人たちで、いわゆる「理解」は不十分でも、
どんどん楽しんでしまうようです。きわめていい加減な場合は、
そもそも「理解」なんていうことはまったく気にしないようです。

*もう一つのタイプは、GR → 挿絵本 → ペーパーバック と進んで、
一見順調なようだけれども、GRの時の英語の理解をそのままペーパー
バックに持ち込んでいる。いわばペーパーバックを強引に学校英語の延長で
理解していているように思われます。

この場合、自分が「正しく理解しているかどうか」を気にし、
さらには試験の点数を気にする傾向があるように思われます。
理解度が気になるので、飛ばし読みができず、結局 たくさんは読めない・・・
また、飛ばし読みができないのでリスニングが不得意、
映画やドラマも分からないところを繰り返し聞いたり、
字幕でたしかめたりするようです。その結果 たくさんは聞けない・・・

とどのつまり、ことばが使われる多様な場面に遭遇することがなく、
なによりも大事な楽しくたくさん吸収することができない。
たくさん読んだように見えて、理解が深まることはなく、多読的精読には
至らないというわけです。のみならず、正しくないといけないと考えがちなので、
話すことも書くこともおびえてしまい、手が出ない。いや、口が出ない・・・

注:もう一度、念のため・・・
二つのタイプに分けたのはいちばん極端な両端を採り上げてみただけ
のことです。両端の間に無数の変化形があります。

**********************************

このメモの結論は以上ですが、どうしても追記しなければいけないことがあります。

後者のタイプは「わたしのことかもしれない!」と思い当たる人には、
「気楽で楽ちんな道」に戻る方法がいくつかあります。

*聞き読み ただし、決して理解を深めるためにという言い訳で、戻ったり、
何度も同じところを聞き読みしないこと! 分からないところは放っておいて、
朗読の速さのまま引っ張られてください!!
*劇薬シャドーイング すでに何百万語も読んでいるのに、聞けない、話せない、
書けない、という場合は、劇薬シャドーイングを試してください。
一気に聞ける、話せる、書けるになる可能性があります。
*字幕なし多観 劇薬シャドーイングよりも続けやすいはずです。
効果のほどはまだよく分かっていません。

「絵=映像」から始まる

けんさんが実に鋭い評価をFacebookのコメントとダイレクト・ツイートで送ってくれました。

小 1年国語、初めの単元のこと、直近の教科書は確認していませんけれど普通のことと思います。問題点は、絵を見て話し合うのはいいのですが、絵の内容がイマ イチ。そしてその単元だけで終わってしまい、一貫して続いているわけではないと言うことです。1年生は文字を知らないのがタテマエですから、このように なっていると思います。しかし絵本の読み聞かせなどを毎日続けながら、同時に「あいうえお」(または簡単な文字の「し」や「つ」)から教えてもいいわけで す。歌やオノマトペの力を借り、お絵かきなどもして総合的に楽しく学べるのが1年生の楽しいところです。いずれにしても今の国語の教科書は昔に比べて質の 高い文学教材が少なくなっています。代わりに発表もどきと変な作文ばかり。子どもたちは正直です。教科書を開けるとまず面白そうな物語を探します。

なんでわたしは自分で気がつかなかったのかと臍を噛む思いです。
(普段から「物語、物語」と言っているのに、なんで気がつかなかったんだ!)

MIKIさんが知らせてくれました。

興味深いサイトを見つけました。一年生の国語の授業の進め方の例が詳しく掲載されています。
http://www4.plala.or.jp/higa/1nenkokugo1.htm

このページで紹介している「話し合い」はどうもある方向に連れて行こうとしていますね。
大事なのは小学校1年生一人一人が文字のない絵のページから、どんな物語を作るか、
ですね。そして、もちろん、どんな物語でもいい。そして、その絵だけの本は
たくさんなけりゃいけない。そして、おもしろい物語を作る種になる絵でなけりゃいけない・・・

やっぱり Oxford Reading Tree の絵本シリーズと同じというわけではなかった・・・?
みなさんの意見を求めます!

「絵=映像」から始まる パピイさんのころも

パピイさんから早速返事がありました。

酒井さん、

昨日のブログの話題を読んで、とても懐かしい気持ちになりました。

小学生になって(1962年)、これからどんなことを習うのだろうと、
わくわくしていたら、国語の教科書の最初のページには、
文字が一個も無くて、とてもがっかりしたことを思い出しました。

その絵は、公園で子供たちが遊んでいる風景でした。
そう、二つ目の写真のような感じでしたね。

腑に落ちない私は、後日先生に聞いてみたところ、
絵を見ながら、みんなでお話をするために文字が無いとのこと。

英国だけでなく、自国語の教育には、どの国も一生懸命取り組んでいるようですね。

☆パピイ

パピイさん、ありがとう!
1962年というとずいぶん最近まで絵だけだったのですね。
最初の記事の教科書は昭和30年というから、1955年だったらしい。
みなさんの小学校入学時の国語の教科書はどうでしたか?

今はどうなんだろう?

と思っていたら、MIKIさんからツイートがあり、
東京書籍の 「新しい国語 1年生上」でも、はじめのうちは絵だけだということが判明。

まてよ・・・? 字が読めないはずだから、ということか?
そんなすごいことではないのか?
いや あいうえお表から始めるなんていうことだってありそうだから、やっぱりすごい?

「絵=映像」から始まる 古き良き日本でも?

かつて、Oxford Reading Tree を初めて見たときに、
読書支援のために作られた絵本のはずなのに、
字のない絵本から始まっている! ととても驚いたのでした。

もちろんわたしが分かっていなかったからで、読書の楽しみは
自分から物語の世界に入っていく ことに始まるということを Roderick Hunt さんや
Alex Brychta さんはよく分かっていたのですね。
絵をよく見て、自分で物語を 作る ようにと、文字を入れていない!

最近になってやっとわたしも、そのことが分かってきたという気がします。
ことばは文字ではない・・・

NPO多言語多読の理事川本さんが
「弟が小学校の時の国語の教科書が出てきた」と言って、事務所に持ってきてくれました。

驚きました。国語の教科書なのに、Oxford Reading Tree の絵本と同じで、
はじめは文字がない!

1国語教科書

 

国語教科書2

こんなすばらしい国語の教科書を作った人たちは・・・

国語教科書3

いま小学校1年生はどんな国語の教科書を与えられているのか?

「絵=映像」 は多読の 「底=土台」? 

一つ前の記事で「わたしたちは多読の底にたどりついた」と書きました。
底というのはわたしの実感ですが、
(12年かけて、文字から音へ、絵へと、ことばに対する考えが 深まって
きたという気がするので)
普通には底というより土台のほうが分かりやすいかもしれません。

底か土台かはたまた基盤か--それはともかく、言葉は文字である以前に、
音であり、場面であり、気持ちであり、考えであるのですね。

けれども日本では漢語以来 外国語=文字 と思いこんできた。
(それ以外に外国語に触れる機会がなかったので)
最近 文科省では外国語の 音 をこれまでよりも重視しようとしていますが、
どうも不徹底に見えます。音を成立させている場面も気持ちも無視されています。
音声英語! というお題目を無理矢理唱えているだけのように見えます。
ことば全体を捉えた上で音の位置を意識しているわけではないのですね。

わたしが考えることばは氷山のようなものです。

*海面上に出ている部分が 音としてのことば

*海面下に広がっている全体の9割は 気持ち/考え/物語/世界観

*そしてことば全体が浮かんでいる海は 場面/世界/状況

文字はせいぜい氷山の上に降った雪というところ・・・

したがって、ことばを 世界 や 物語 や 場面 や 気持ち や 考え から切り離して
理解しようとしたり、仕組みを探ったりすることは非常に無理があると思われます。
(文法を探る試みがいまだに成果を挙げていないのはそのせいかもしれません。)

この「ことば観」は実に多くのことにつながっています。たとえば
*言葉の獲得を文字だけからはじめることはあり得ない
*「をさなごのやうに」外国語を獲得することが可能だとすれば、
音と絵や映像から始める
(ただし、をさなごではない人が「をさなごのやうに」なるにはさまざまな工夫や
仕掛けを必要とします。それがgraded readersであったり、劇薬シャドーイング
であったりするのですね。)
*文字ばかりの本が「読める」ためには、音と絵や映像をたっぷり体に染みこませて、
文字を見ただけで音や絵や映像が思い浮かぶようになっていることが前提

最後の点をこれからしばらく記事にしようと考えていますが、
一言で方向を書いておくと、graded readers には絵が足りない、ということですね。
お楽しみに!