をさなごのやうに

わたしたちは多読の底にたどりついた katobushiさんの感想から・・・ 

katobushiさんのツイートを引用したら、katobushiさんからメールがありました。

ブログ拝読致しました!
引用していただいてほっとしています!あのころの報告は本当にまずかったです!

ブログの感想です。。。
現象的なことですが(そう、本当にしょーもない現象的なはなしです)、学校英語や歪んだ学習意識をどうかいくぐるか、という視点では、「年齢」という尺度はあっさり「レベル」に利用されるだろうと予想します。

参ったな、でもそうでしょうね、「あっさり「レベル」に利用される」でしょうね。
一つだけ希望があるとすれば、年齢は一人一人のもので、
「レベル」は一人一人の外にあるもの--

そういうことを周到に避けるにはどうするか?
僕はこんなふうに思います。多読初期の人に「辞書を捨てろ」というのと同じ意味合いで、「レベルを捨てろ」「(狭義の)言葉を捨てろ」といえばいい!だれも相手にしてくれないでしょうか。。。

「レベルを捨てろ」--なるほど、です。

先生は「氷山の一角」って言いますよね。字幕なし多観を「1%も聞き取れないもの」からはじめることが出来れば、文字や、文字に乗っ取られた音から離れて、海面下で起こっていることを感性でとらえられるかもしれません。慣れてしまえば、そんなに難しいことじゃないです。実はかなりの部分を受けとれます。音楽家と音楽で、絵描きと絵で対話できるのと同じことです!そこが一番大事!!

人によっては「大人向け」や「劇薬」の方がいいかもしれませんね。「子供向け」は「レベル」に組み込みやすいですからね。そして「多読」よりもより一層「投げる」ことを強調せねばです! YYさんが「Third star」で経験したようなことが起これば、「レベル」や「学校英語」に対する強力な対抗手段になり得ませんか??(やっぱり最後までしょーもない話でした。。。)

しょうもなくなんか、ないですよ。
多読のいちばん底にわたしたちはたどりついたのだろうと思います。
ここをわたしたちの新しい旅の出発点にするのですね。

追伸
「本当にまずかった」なんて心配は無用です。
いや、無用じゃないかもしれないけれど、あっちへふらふら、こっちへふらふらは
「未知の道」を踏みならして行くときは仕方ないんじゃないだろうか?

わたしなどはそういう「まずいこと」を山のようにしてきた。
100万語を提案しました--よかったような、悪かったような・・・
YLに関わってしまった--悪かったような、よかったような・・・
Graded Readers をみなさんに紹介してしまった--よかったような、悪かったような・・・
挙げはじめればきりがありません・・・ これからもいっぱい「まずいこと」をするでしょうね。

字幕なし多観について katobushiさんのツイートから

まず、katobushiさんのツイートを引用・・・

僕が字幕なし多観をはじめたころのORTのような動画から、というコンセプトはよくなかったと反省しています!字幕なし多観のいいところは、レベルの概念を捨てやすいところだと思います!

字幕なし多観の効果は聞き読みよりもっと強力だとおもいます!プラス、字のない絵本から始めるみたいに1%も聞き取れないものからはじめることをお勧めしたいです!

レベルの概念を捨てる・・・大事件ですね。
これまでの多読はレベルの概念は大事だということで始まり、進んできました。

レベルの概念を使って入り口を入りやすくする--これはうまい作戦だったと思いますが、
場合によってはうまく行き過ぎていつまでもレベルから抜け出せないことがあります。
また学校などでは試験や成績や点数、数字に反映しやすいので、
そもそも抜け出す気がないのが普通・・・

わたし自身がレベルという考え方から抜け出すのにずいぶん時間がかかりました。
最初から警戒していたのに時間がかかったのだから、レベルや進度や理解度といった
考え方のしつこさは身をもって体験しています。

ではレベルの概念を捨てて、代わりにわたしたちの歩みを確認するには何がいいのか?
わたしは年齢だろうと思います。「をさなごのやうに」始めて、少しずつ世界と物語を
理解していく・・・

その場合、katobushiさんの言う「1%も聞き取れないものからはじめる」ことは、
赤ちゃんが自分の周囲の言葉や状況をほとんど理解できないところから成長していくことを
真似することになるでしょう。

つまり、最初は 見る・聞く・泣く(もごもご?) から始まって、一語文で話すへ、それから
読む・書くへ というところでしょうか? もちろん大人が同じような過程を経るのかどうか、
それはみなさんの報告で少しずつ明らかになっていくことでしょう。

(ついでに言うと、その過程に学校英語がどう関わるのかも、明らかになっていくでしょう。)

字幕なし多観について キャラクターが鍵?

やはり字幕なしで映画やドラマやアニメを楽しんでいる人はあちこちにいる
と見えて、きょうも報告がありました。

実に示唆的なので、字幕なしに関する部分をそのまま引用します。

字幕なし多観が楽しく続けられるかどうかは
どれだけ(言葉がわからなくても)登場人物の気持ちを想像し共感できるか
それと
お気に入りの(または気になる)登場人物がいるか
にかかっているように思います。

この登場人物(キャラクター)というのが
見続けるのに
けっこう大事なんじゃないか、と思っています。

これが面白ければ、それだけで目が離せなくなって
ストーリーさえわからなくても見続けてしまうのが
人間の特性かもしれません。

私の姪は2才くらいから「相棒」が大好きでしたし
娘も3才のとき「渡る世間は鬼ばかり」の
再放送にはまっていました。
息子の友だちは2才の頃、まだ片言のときに
「はぐれ刑事純情派」が大好きで
藤田まこと演じる主人公が出ると
「ハグレ、ハグレ」と興奮して見入っていました。

2歳や3歳のこどももドラマの世界や物語に惹かれるのでしょうか?
おそらく惹かれるのでしょうね。

彼らが殺人や鑑識結果や店の経営や嫁姑問題などが
わかっていたわけではないけれど、
1時間ちかくずっと鑑賞していられたというのは
お気に入りの人物が笑ったり困ったりののしりあったりすると
もう目が離せなくなってしまったからだと思います。
危険な目に合うと自分もドキドキしていたみたいです。
(ちなみに、これら国民的ドラマを酒井先生は
知らない可能性がかなり高いと推測します・笑)

それにしても2歳の頃に、藤田まことの威力が分かる?!
わたしたちは世界について、歴史について、人間について、とんでもない
理解力や吸収力を持っているのでしょうね。
まだだれもどれほど広く深く高いのか、知らないのでしょうけれど。

私も昨年の秋から思うところあって多観を始め
12月にメリッサさんとお会いしてからは
ますます字幕なし中心になりました。

連続ドラマなら、登場人物になじんできて
その人の癖とか習慣とか性格がわかってくると
その回のストーリーが大した話でなくても
キャラクターの魅力で楽しめます。

あの世界的な、近頃また現代に現れた探偵さんも
頭脳明晰だけどコカイン中毒だったりするキャラ、
口ぐせ、決め台詞、あの挿絵の造形(帽子、コート、パイプ)
がストーリー以上に人々をひきつけるものだから人気者なのでしょう。

機関車トーマスだって汽車なのに
それぞれの性格や癖がはっきりしているのを
子どもたちはちゃんと見分けています。

そういえば、魅力的なキャラクターのいないヒット作はないような?

今回、先生のブログで
受講生のBさんのDesperate Housewives のメモと
パピイさんのコメントを興味深く拝見しました。
私もこのドラマにはまったことがあるので
なおさら、なるほどと思ったのかもしれません。
10%しかわからない、というのは話されている英語のことでしょうが
このドラマを最初から見ていれば
登場人物設定と展開が、たぶん英語が全くわからない方でも
わかると思います。
それぞれがどうなっていくのか、次々新しい人も出てくるので
興味が尽きることもないし
わからない部分があっても、どうなっていくのか楽しめるはずです。

それと、このキャラクターへの思い入れ、共感、というのと
例のGRの弊害の話は実は関係があると思っていますので
そのうちお話ししますね。

場面と展開と表情と声音(言っていることの「理解度」ではないです)について
パピイさんと同じ感想と言っていいのでしょうね。

さらに長くなってしまいそうですので
劇薬?多観についてもまた次回に。
私、20年以上前は何も考えず平気でやっていました。
知らない土地の映画館に入って知らない言葉の映画を見るのが楽しかったです。
香港で広東語の映画を見るとか。

ひとつヒントになりそうなのは、NPOにもあるピングーです。

次回を 非 常 に 楽しみにしています!

それから、段階別読み物(GR)の弊害についても、ぜひ意見を聞かせてください。
わたしは実は1年半くらい前からその話題についてブログに下書きを貯めています。
それで、実はまもなくそれを記事として公開しようと考えていたのです。
ご意見を楽しみにしています!

追記
字幕なし多観のよさと、GRの弊害は同じコインの裏表だと、わたしは考えています。
その意味でも、この人の次回の報告は楽しみです。

字幕なし多観について質問がありました・・・

昨日の記事はNPOの講座受講生Bさんが、
10%しかわからなかったけれど、Desperate Housewives にはまった、
という報告でした。きょうは同じ日に受講生Mさんからいただいた質問から・・・

Mさんは

文字なしで映画を観るということはぼーっと見るということですか?

という意味のことを尋ねてくださった!
それで、そうだ、そうだ、とわたしは気がついたのでした!!

*多読は字のない絵本から始める・・・
*tadokuは字幕のない映画やドラマから始める・・・
*どちらも最初は 絵だけ眺めて、ぼやーっと筋が分かればいい・・・
*たくさん眺めたり観たりしているうちに 少しずつ霧が霽れるように
細部まではっきり見えて来る--不思議ですね!

多読とtadokuの平仄が合ってきたと書きましたが、まさにぴったりですね。
Mさんに大きなヒントをもらいました。

たくさん揃えたDVDはぜひ、ぼーっと眺めるところから始めましょう。
それではなかなかおもしろいDVDに当たらないかも知れませんが、
NPOとしては必死でおもしろそうなものを探して、買い集めます!

字幕なし多観についてツイート

ある人がツイートしていました。
とても簡潔に字幕なしへの道、そして楽しみを伝えてくれます。
そこで紹介・・・

多読始めたばっかりの頃は一生懸命文字を追いかけて挿絵はほとんど見てなかったんだけど、絵本をたくさん読むようになったら逆に文字なんかどうでもいいや~てなってきた それはそれで問題あるのかもしれないけど、そのおかげでか字幕なしで映画みるのも特に苦にならない 絵でわかるわかる~てなる

これ以上は短くならないことばで自分の多読からtadokuへの進化を
語っているのですが、実はそのままわたしが言い出した多読から、
みなさんが道を開いた tadoku への進化を言い表していると思います。

Hさんと同じように、多読も挿絵だけのGRから始まって、
聞き読みや絵本へ、そして字幕なし多観へと進化してきました。
その過程は文字だけでなく、音も絵(場面)も同じくらい大事だという
分かってきた道程です。

そしてわたしが言い出したのは多読(とシャドーイング)だけだったと
言えます。聞き読みも、絵本も多読も多読仲間が発掘したのです。

別に試験受けるわけでもなんでもないし当分これでいいかな~何より楽しい

「何より楽しい」のだから問題はないでしょうね。
楽しんでいるうちに描写の細かいところや、感情の機微や、
情景のスケールまで楽しめるようになります。わたしは

「そのまま Enjoy English!」

と返信したのでした。Hさん、引用を許してくださって、ありがとう!
みなさんも、まずは「楽しむ」ところから出発を!