一つ前の記事で「わたしたちは多読の底にたどりついた」と書きました。
底というのはわたしの実感ですが、
(12年かけて、文字から音へ、絵へと、ことばに対する考えが 深まって
きたという気がするので)
普通には底というより土台のほうが分かりやすいかもしれません。
底か土台かはたまた基盤か--それはともかく、言葉は文字である以前に、
音であり、場面であり、気持ちであり、考えであるのですね。
けれども日本では漢語以来 外国語=文字 と思いこんできた。
(それ以外に外国語に触れる機会がなかったので)
最近 文科省では外国語の 音 をこれまでよりも重視しようとしていますが、
どうも不徹底に見えます。音を成立させている場面も気持ちも無視されています。
音声英語! というお題目を無理矢理唱えているだけのように見えます。
ことば全体を捉えた上で音の位置を意識しているわけではないのですね。
わたしが考えることばは氷山のようなものです。
*海面上に出ている部分が 音としてのことば
*海面下に広がっている全体の9割は 気持ち/考え/物語/世界観
*そしてことば全体が浮かんでいる海は 場面/世界/状況
文字はせいぜい氷山の上に降った雪というところ・・・
したがって、ことばを 世界 や 物語 や 場面 や 気持ち や 考え から切り離して
理解しようとしたり、仕組みを探ったりすることは非常に無理があると思われます。
(文法を探る試みがいまだに成果を挙げていないのはそのせいかもしれません。)
この「ことば観」は実に多くのことにつながっています。たとえば
*言葉の獲得を文字だけからはじめることはあり得ない
*「をさなごのやうに」外国語を獲得することが可能だとすれば、
音と絵や映像から始める
(ただし、をさなごではない人が「をさなごのやうに」なるにはさまざまな工夫や
仕掛けを必要とします。それがgraded readersであったり、劇薬シャドーイング
であったりするのですね。)
*文字ばかりの本が「読める」ためには、音と絵や映像をたっぷり体に染みこませて、
文字を見ただけで音や絵や映像が思い浮かぶようになっていることが前提
最後の点をこれからしばらく記事にしようと考えていますが、
一言で方向を書いておくと、graded readers には絵が足りない、ということですね。
お楽しみに!