多読的鑑賞

きょうは三つもあった!

そんなに珍しいことではないのですが、きょうは三つも行くところがあって、
それぞれおもしろかったから、なんだか三日分くらい仕事した感じです・・・

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「絵=映像」から始まる Kakkoさんのメール その1

最初にメールをいただいたのはしばらく前でした。
NPOの多読講座受講生Bさんパピイさんの感想を記事にした直後でした。

その後つい最近までわたしとメールのやりとりが続いて、いよいよいただいた
メールを引用します。いろいろな意味で示唆に富む感想と意見です。

酒井先生

Kakkoです。
(多観のために昨年はじめて登録したハンドルネームです!)

字幕なし多観が楽しく続けられるかどうかは
どれだけ(言葉がわからなくても)登場人物の気持ちを想像し共感できるか
それと
お気に入りの(または気になる)登場人物がいるか
にかかっているように思います。

この登場人物(キャラクター)というのが見続けるのに
けっこう大事なんじゃないか、と思っています。

これが面白ければ、それだけで目が離せなくなって
ストーリーさえわからなくても見続けてしまうのが
人間の特性かもしれません。

たしかに最近の登場人物でも シャーロック・ホームズ、ジョン・ワトソン、
House M.D. のハウス、Damages のGlenn Close・・・と、枚挙に暇がありませんね。

私の姪は2才くらいから「相棒」が大好きでしたし
娘も3才のとき「渡る世間は鬼ばかり」の
再放送にはまっていました。
息子の友だちは2才の頃、まだ片言のときに
「はぐれ刑事純情派」が大好きで
藤田まこと演じる主人公が出ると
「ハグレ、ハグレ」と興奮して見入っていました。

彼らが殺人や鑑識結果や店の経営や嫁姑問題などが
わかっていたわけではないけれど、
1時間ちかくずっと鑑賞していられたというのは
お気に入りの人物が笑ったり困ったりののしりあったりすると
もう目が離せなくなってしまったからだと思います。
危険な目に合うと自分もドキドキしていたみたいです。
(ちなみに、これら国民的ドラマを酒井先生は
知らない可能性がかなり高いと推測します・笑)

(知りません・・・)

私も昨年の秋から思うところあって多観を始め
12月にメリッサさんとお会いしてからは
ますます字幕なし中心になりました。

やっぱり! 実は字幕なし多観はあちこちの人がやっていたようです。
でも、「英語は分かってないから」というので、報告がなかったんでしょうね、
今までは。でも、これからは「字幕なし」が標準になっていくでしょう。
もちろん標準ということは前後にぶれや振れはあるということですが。

連続ドラマなら、登場人物になじんできて
その人の癖とか習慣とか性格がわかってくると
その回のストーリーが大した話でなくても
キャラクターの魅力で楽しめます。

あの世界的な、近頃また現代に現れた探偵さんも
頭脳明晰だけどコカイン中毒だったりするキャラ、
口ぐせ、決め台詞、あの挿絵の造形(帽子、コート、パイプ)
がストーリー以上に人々をひきつけるものだから人気者なのでしょう。

機関車トーマスだって汽車なのに
それぞれの性格や癖がはっきりしているのを
子どもたちはちゃんと見分けています。

今回、先生のブログで
受講生のBさんのDesperate Housewives のメモと
パピイさんのコメントを興味深く拝見しました。
私もこのドラマにはまったことがあるので
なおさら、なるほどと思ったのかもしれません。
10%しかわからない、というのは話されている英語のことでしょうが
このドラマを最初から見ていれば
登場人物設定と展開が、たぶん英語が全くわからない方でも
わかると思います。
それぞれがどうなっていくのか、次々新しい人も出てくるので
興味が尽きることもないし
わからない部分があっても、どうなっていくのか楽しめるはずです。

それと、このキャラクターへの思い入れ、共感、というのと
例のGRの弊害の話は実は関係があると思っていますので
そのうちお話ししますね。

さらに長くなってしまいそうですので
劇薬?多観についてもまた次回に。
私、20年以上前は何も考えず平気でやっていました。
知らない土地の映画館に入って知らない言葉の映画を見るのが楽しかったです。
香港で広東語の映画を見るとか。

ひとつヒントになりそうなのは、NPOにもあるピングーです。

で、すぐ上に出てきた GRの弊害 の話ですが、「絵=映像」と段階別読み物の
話はどうしても切り離せないと思われます。しばらくKakkoさんのメールを参考に、
ことばにとっての「絵=映像」の大事さについて考えます。お楽しみに!

字幕なし多観について katobushiさんのツイートから

まず、katobushiさんのツイートを引用・・・

僕が字幕なし多観をはじめたころのORTのような動画から、というコンセプトはよくなかったと反省しています!字幕なし多観のいいところは、レベルの概念を捨てやすいところだと思います!

字幕なし多観の効果は聞き読みよりもっと強力だとおもいます!プラス、字のない絵本から始めるみたいに1%も聞き取れないものからはじめることをお勧めしたいです!

レベルの概念を捨てる・・・大事件ですね。
これまでの多読はレベルの概念は大事だということで始まり、進んできました。

レベルの概念を使って入り口を入りやすくする--これはうまい作戦だったと思いますが、
場合によってはうまく行き過ぎていつまでもレベルから抜け出せないことがあります。
また学校などでは試験や成績や点数、数字に反映しやすいので、
そもそも抜け出す気がないのが普通・・・

わたし自身がレベルという考え方から抜け出すのにずいぶん時間がかかりました。
最初から警戒していたのに時間がかかったのだから、レベルや進度や理解度といった
考え方のしつこさは身をもって体験しています。

ではレベルの概念を捨てて、代わりにわたしたちの歩みを確認するには何がいいのか?
わたしは年齢だろうと思います。「をさなごのやうに」始めて、少しずつ世界と物語を
理解していく・・・

その場合、katobushiさんの言う「1%も聞き取れないものからはじめる」ことは、
赤ちゃんが自分の周囲の言葉や状況をほとんど理解できないところから成長していくことを
真似することになるでしょう。

つまり、最初は 見る・聞く・泣く(もごもご?) から始まって、一語文で話すへ、それから
読む・書くへ というところでしょうか? もちろん大人が同じような過程を経るのかどうか、
それはみなさんの報告で少しずつ明らかになっていくことでしょう。

(ついでに言うと、その過程に学校英語がどう関わるのかも、明らかになっていくでしょう。)