学校英語を洗い流す

「絵=映像」から始まる Kakkoさんの二信

GR(Graded Readers、段階別読み物)の弱点は絵の少ないことだ、というのが
今回わたしが書いている「GR見直し論」の出発点ですが、
Kakkoさんの二信にはそのほかの弱点も言及しています。
そのすべてにわたしは同感です。

graded readers はやはり教科書であり、補助つき自転車であり、補助輪は早くはずしたほうがよくて、はずせないといつまでも補助なしでは乗れないまま。
補助輪つきの自転車は楽しかったし、初めての自転車を手にいれてうれしかったけど、補助なしよりは自由に動け回れなくて、実は自分は補助輪なしでは乗れないと気づいた時の落胆はけっこう大きい。
補助輪を早くはずせば、またははじめから補助輪なしで挑戦すればたくさん
転んで痛いけど、たくさん転んでいるうちに補助輪なしでも乗れるようになって
ずっと自由にあちこちに行けるようになる、ということでしょうか。
補助なしに慣れると補助輪付きはかえってこわいくらい不自由に感じる、あの感じに似てるように思います。

おそらく、書いている人自身に与えられた制約から窮屈さも伝わってくるというか。

この「GRは補助輪」という見方はわかりやすくていいですね。
わたしは GRは緊急避難用 と書きましたが、まったく同じ趣旨だと思います。

ただし、この話題の最初から書いているように、うまく補助輪が外れた場合も少なくないと思われます。
そういう場合はGRから始めて、それから朗読をたくさん聞いたり、シャドーイングをやったり、
絵本や映画やmangaやアニメを並行して楽しんだということかもしれないと推測しています。

もうひとつ。
「14才の哲学」という本の「本物と偽物」という章から少しずつ引用します。
「確かに上手にまとまってはいるのだけど、なんだかどこにでもありほうな感じで、つまらなく、この人ほんとはどう描きたかったのかがよくわからない、そういう絵と、決して上手とは言えないけれども、迷いがなくて、独創的で、この人はこれが描きたかったんだろうということがはっきりとわかる魅力的な絵とがあるのに気がつくだろう。両者の違いは、描いた人の、心の構えだ。」
「ちゃんと本物がそこにいるのに、本物を真似してるだけの偽物なんかに惹かれる理由があるわけがない」

もちろん楽しめる感動できる良い話もあるのですが、でも作られた目的が「学習」書ですから本物の文学であるはずがない。

これに慣れることで本物と錯覚してしまい、本物に触れることを阻害しているとしたら…

「作られた目的が「学習」書ですから本物の文学であるはずがない」とも言えないと思います。
たしかにGRの特にやさしいレベルは「1冊読めた!」という感動以外には「本物の文学」の
ような感動はきわめて稀でしょう。でも、レベルの高い方には立派に「本物の文学並み」
もしくは「本物の文学を思わせる」くらいの感動はあると思います。でもそれについては
Kakkoさんのメールを話題にする記事の最後で少し語ります。

でも、どうなんだろう?
GRから始めて、いまはさまざまなペーパーバックを楽しんでいるみなさん、
GR → 挿絵本 → ペーパーバック の道を一直線にたどったのですか?
それとも途中に絵本が入ったり、朗読が入ったり、何かしら文字だけから抜け出すことを
しましたか? もしよければ報告をお願いします。宛先は info あとまあく tadoku.org です。

あとややこしいのがgraded readersは従来の英語学習とけっこう相性がよくて、学校の勉強をまじめにやってきた文法ができる人はすぐに慣れてたくさん読めるようになります。
こんなに字がたくさんの本を読めるようになった、という一時の甘美な歓びがかえって本物にたどりつくのを遠回りにしてしまっているように見えます。
さらにややこしいのが、GRは各種試験とも相性がよく(両方とも人工物ですから)、点数やらスコアやらも見事に上げてくれるので
「できるようになった」という錯覚に陥ります。これも甘美な歓びですが長い目で見ると体に悪い麻薬です。

すでに長いです。
そして多観と関係ある「共感」の欠如や文体の問題もあるのですが、それはまたいつか、ちゃんと私が整理してからにさせてください。

この本のここが、とか、こういう人がいた、こういう感想を言っていた、という例はいろいろあるのでなるべく忘れないでいようとおもいます。

あと、GRではない児童書にも同様の副作用をもたらす本があるように感じています。

それでは!

わたしの見方と似通っているところがたくさんありますが、いちいちは挙げないことにします。
でも一つだけはもう一度指摘しておきます。graded readers は学校の試験と相性がよい--
このことがあちこちの学校で行われている「多読授業」でGRが使われ、
「試験を目的とした多読」に成り下がっている大きな理由だと思われます。

またあしたをお楽しみ!

「絵=映像」から始まる Kakkoさんの追伸

昨日の記事のあとに、こういう追伸が来ました。

大事なことを忘れていました。
私、英語がわからなくてもDesperate Wivesを楽しめる、と書きましたが
楽しめない人たちもいます。

私の周りでは、それは「英文科卒の人」と「まじめにテストのための勉強をしている人」です。
または学校が作った英語アレルギーの人でしょうか。
お勉強モードで見るからリスニング、と思ってしまい聞き取れないとイライラして続けられなくなってしまうのです。
テストや資格に熱心だった以前の私も当時ならその中に入っていたと思います。

今はとっても楽しいです!
それではまた。

Desperate Housewives であれ、ほかのドラマや映画であれ、mangaであれ、絵本であれ、
「まじめにテストのための勉強」をすると、「正解は一つしかない」と思いがちになるようです。

Kakkoさんは、「お勉強モード」の具合の悪いところをよくご存じだと思いました。
しかも「以前の私」のことも冷静に思い出しているところもすばらしい。
一旦「お勉強モード」に囚われてしまうと、抜け出すのはかなりむずかしい。
試験に長く関わっていると、自分のことも、ほかの人のことも、試験の点数や資格でしか
判断できなくなる・・・ これは恐ろしい病です。往々にして不治の病に至る・・・

「段階別読み物」--英語多読では graded readers つまり GR と呼びますが、
これは時として、「お勉強モード」に馴染みやすいところがあります。
KakkoさんのメールはGRの具合悪い点に移っていきます。
どうぞ、お楽しみに!

なお、graded readers にはそれなりの使い道があります。
一言でいえば、多読初期の緊急避難的な使い方であり、
中期(?)以後にはダイジェスト版世界名作全集としての使い方です。
くわしくは GR論議の最後に付け加えます。

「絵=映像」 は多読の 「底=土台」? 

一つ前の記事で「わたしたちは多読の底にたどりついた」と書きました。
底というのはわたしの実感ですが、
(12年かけて、文字から音へ、絵へと、ことばに対する考えが 深まって
きたという気がするので)
普通には底というより土台のほうが分かりやすいかもしれません。

底か土台かはたまた基盤か--それはともかく、言葉は文字である以前に、
音であり、場面であり、気持ちであり、考えであるのですね。

けれども日本では漢語以来 外国語=文字 と思いこんできた。
(それ以外に外国語に触れる機会がなかったので)
最近 文科省では外国語の 音 をこれまでよりも重視しようとしていますが、
どうも不徹底に見えます。音を成立させている場面も気持ちも無視されています。
音声英語! というお題目を無理矢理唱えているだけのように見えます。
ことば全体を捉えた上で音の位置を意識しているわけではないのですね。

わたしが考えることばは氷山のようなものです。

*海面上に出ている部分が 音としてのことば

*海面下に広がっている全体の9割は 気持ち/考え/物語/世界観

*そしてことば全体が浮かんでいる海は 場面/世界/状況

文字はせいぜい氷山の上に降った雪というところ・・・

したがって、ことばを 世界 や 物語 や 場面 や 気持ち や 考え から切り離して
理解しようとしたり、仕組みを探ったりすることは非常に無理があると思われます。
(文法を探る試みがいまだに成果を挙げていないのはそのせいかもしれません。)

この「ことば観」は実に多くのことにつながっています。たとえば
*言葉の獲得を文字だけからはじめることはあり得ない
*「をさなごのやうに」外国語を獲得することが可能だとすれば、
音と絵や映像から始める
(ただし、をさなごではない人が「をさなごのやうに」なるにはさまざまな工夫や
仕掛けを必要とします。それがgraded readersであったり、劇薬シャドーイング
であったりするのですね。)
*文字ばかりの本が「読める」ためには、音と絵や映像をたっぷり体に染みこませて、
文字を見ただけで音や絵や映像が思い浮かぶようになっていることが前提

最後の点をこれからしばらく記事にしようと考えていますが、
一言で方向を書いておくと、graded readers には絵が足りない、ということですね。
お楽しみに!