ことばの氷山

11月26日各務原市でシャドーイング講座+ワークショップ

すでに何度も書きましたが、2002年に実質的に始まった多読はその後
15年近くかかって文字だけでなく音を含めた Tadoku へと進化しました。
今回の 各務原市で開かれるシャドーイング講座 は、
NPO多言語多読の外で開かれる最初の講座です。
(滝本さん、お招きありがとう!)
いわば文字から音へ広がる最初の一里塚とも言えます。
15年の間に文字についてたくさんの鱗がわたしの目から落ちましたが、
音についても同じくらいたくさんの鱗が目から落ちました。
そして15年前には考えもしなかった新しい音が見えてきました。

いや、それは変? 新しい音が聞こえてきたのかな?
口から出てきたのかな? 耳から鱗が落ちた?
それはともかく、15年分の鱗の数々をこれからあちこちでお見せします。
いや、それは変? お聞かせしますかな?
ま、それはともかく、これまでの多読講演会+ワークショップに加えて、
シャドーイング講演会+ワークショップの実質的な第一回です。

期待と不安とともに、参加を呼びかけます。See you in 各務原!

11月26日(日)岐阜県各務原市にてシャドーイング講座!

多読・Tadokuはトップダウン! Hさんからのメール

トップダウンに直接つながる部分だけを抜き出します。

「ことばは、世界を、秩序あるものとして、みるための、めがねみたいなものなんじゃないかと、感じている。」

元のメールはくわしくなぜこんな風に感じるかを書いてあります。
ことばがないと、世界を作っている(?)さまざまなもの、
つまりHさんにとっては、光や音や色の境界線が、微妙で、互いに入り交じって、
感じ取ったのは、光だったのか、音だったのか、あるいは、色だったのか、、、
さらには、温度だったのか、凸凹だったのか、圧力だったのか、なんだったのか、、、
振り返っても、よく、わからなくなっていることがあるそうで、
ことばはその世界を見やすくしてくれるめがねということのようです。

うらやましいですね・・・
わたしが見ている世界はいつも秩序だっているようです。
Hさんのような感じ方の目が見る「ばらばらな?世界」に憧れさえ感じますが、
ことばと世界の関係はそういうものなのかもしれませんね。

Yさんの言う「情景」を作っているのがHさんの「世界」で、
どちらもことばとは(多かれ少なかれ)独立しているのかな?

Hさん、貴重な感想をありがとう!

いよいよウンチクもウンチク、哲学の世界に入ってきたようですね。
哲学には大いに疑問を感じていますが、論理を道具とした遊びとしては
おもしろいです。(その意味では文法と哲学は似ている!?)
もっと意見交換をしましょう。