多読のパラドックス 子離れ熟成篇

去る者は日々に疎し--語学学習ではこれは特に実感を持って語られる
ことわざでしょう。けれども、「去るとも日々に親し」というパラドックス!

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多読支援は簡単な場合は、ひどく簡単で、複雑な場合はひどく複雑・・・

特に家庭内の場合は、複雑になるとどんどん複雑になって、
解きほぐすのは大変!ということがあります。

どういう場合には「簡単」か?

ある程度はっきりしていると思いますが、親が子どもを離れた自分の生き方を
持っていると思われる場合は、比較的親子多読がうまくいくようです。

そういう場合と思われる例をあるブログから紹介します。

【YYYの多読】支援三原則を守って、見守ることの大切さ。

ひょんなことから、今週末にNPO多言語多読(TADOKU Supporters)の事務所に遊びに行くことになりました。英語絵本の読み聞かせの会です。

で、もちろん私も絵本を1冊選んだのですが、一緒に行くYYYにも、「今回は絵本の読み聞かせの会だから、YYYも1冊選んで読んでね。」と言って選んでもらいました。

最初は、大好きなBiscuitを持ってきたのですが、7月にNPOの事務所に行って様子がわかっているからか、「この本だとちょっと小さいかな。もうちょっと大きな絵本がいいよね。」と言って別の本を持ってきました。

お~、この本は、私が10年近く前、児童英語の先生になったばかりの頃に教材として使っていた本ではないですか! YYYの部屋にあったらしいのですが、「なんか、懐かしかったから」と言ってました。

実は、ここだけの話ですが(笑)、YYYの多読は大停滞期に入ってます。体を動かすことが大好きで、もともとあまり本を読まない子です。図書館や書店で本を見るのは好きで、月2~3回は市立の図書館で本をかります。今は歴史まんがに凝っているようですが、かりた本を読むのは本当に時々。そんなYYYですから、英語の本は最近まったく読んでいません。去年の夏に33万語くらいまで読んでからは完全にストップしていて、とうとう6年生になってからは長期休みの課題にすら入れてもらえない始末・・・。

来年からは中学生になるし、母親としては少し焦る気持ちもあって、酒井先生にもお話ししたのですが、「放って置きなさい」のひと言で・・・。本当に今のままでいいのかな~と正直かなり不安になっていました。

YYYさんに限らず、こどもが「勉強」しないときに、放っておくのは、
かなり大変です。どうしてもちょっかいを出したくなる。それはわたしも同じでした。
--できるだけ子どもの生きたい道の邪魔にならないようにとは思うものの、つい・・・

でも、自分ではちゃんとできなくても、かなりの数の親子を見てきて、
放っておく、これは親の義務の第一ではないかと思っています。
「親はあっても子は育つ」場合もありますが、概して親が口を出していいことはない。

おっと、この話題は長くなります。戻りましょう。

で、最初にYYYに、「読み聞かせでさ、一番大切なことって何だっけ?」と質問してみました。返ってきた答えは・・・

「絵を見てもらうこと」

あ、なんだ、わかってるんだ。ちょっとホッとしました。

じゃ、とりあえず、一回読んでみて、と言うと、なんと、なんと・・・

実にすらすらと、実に普通に、読みました(驚)すごく久しぶりに開いたか、もしかしたら一度も自分では読んだことのない本を。まるで日本語の本を初見で読むような感じで。(発音できない単語が1個だけあって、すごく久しぶりに止まって私の顔を見ました・笑)

英語に関しては何も言うことがありませんでした。ここはもうちょっと間を取った方がいいよね、とか、この絵はゆっくり見てもらいたい絵だよね~とか、どちらかと言えば絵本の見せ方に関することだけで、そこだけ練習すればいいのかも・・・、と思いました。

自分自身も多読をしていて、何人かに多読の支援もしていて、今回のYYYの件も含めて多読って本当に不思議だな、と思うのは、例えば何かの事情でしばらくお休みをしたり、読めない期間があったとしても、直前まで読んでいたものはきちんと体に(頭に?心に?)残っていて、時間が経っても後戻りすることなくそこに戻れるということ。

中には、中断前より難しい本が読めるようになった、って言う人がいるということ。

読んだ語数が減らないように、体(頭?心?)に溜まった言葉も減らないのかな。

絵を見ること! うーん、子どもの直感はすごい・・・ すごい・・・

これはここ数年強調するようになりましたが(もっと前からだったかな?)
おとなはこれを分かるのに苦労します。わたしも、5年くらい前まではそこまで
絵が大切だとは思っていなかったのではないかな? 単に「絵が多い方が
入門しやすい」という程度の認識だったと思います。

NPOの多読講座でははじめのうちは字を隠して絵だけを見てもらいます。
英語の勉強に来たのに、英語を見せてもらえない!というわけで、
みなさん、半信半疑で講座に入って行きます。でも・・・

「ことばは白い活字の上に印刷した黒い活字ではない」

わけで、どうしてもことばの生まれた場面と、言葉を出す人の表情と一緒に
体に吸収する必要があります・・・ありますが・・・ 長くなるのでこれはまたいつか。

たぶん、YYYさんの場合も、頭ではなく、心と体と頭と、(ひょっとすると仮想的には
筋肉も使って)全身で絵本を受け止めたんでしょうね。そうすると、もう歩いたり、
走ったり、息したりするのに近くなって、かなりの時間離れていても消えたり、
忘れたりしない? だからこそ、しばらく停滞があっても、それはむしろ熟成のために
必要だったりする?

停滞期間の熟成--これは多読の謎の中でも相当大きい!

酒井先生の言うとおり、多読に関しては今後もYYYに言わないようにしよう、と思いました。YYY自身がいつか必要だと感じた時には、本はいつでもあるんだし。

何か、よかったな。YYYにはちゃんと多読の種が根付いているんだ。私が何も心配しなくても、枯れてないんだ、と実感できました。

ブログの引用を許してくださって、ありがとう!

最初に出てきた多読支援三原則については先生向けにいつも話していますが、
ブログではあまり言っていなかったと思うので、書いておきます。

<多読支援三原則>

1.教えない

2.おしつけない

3.テストしない

学校の先生に嫌がられるのも無理ありませんね・・・
けれども、多読三原則と多読支援三原則はことばとわたしたちの関係を
いちばん底から見直す機会を与えてくれるのだと、今にして思います。
そして多読はどうもかなりことばを身につける時の根本的な土台に関わっている
かもしれないと思います。

なお、次回のNPO多言語多読「絵本読み聞かせ会」は11月10日です。
詳しくは・・・

http://forum.tadoku.org/viewtopic.php?f=9&t=2022&p=7671#p7671

ある児童英語教室の10年 多読支援のむずかしさと楽しみと・・・

多読支援はつまるところどこまで一人一人に合わせた助言ができるかということです。

わたしが多読普及を始めた直後に
「多読を支援する人の満たすべき二つの条件」
を言い出しました。

1. 自分自身でいちばんやさしい本の多読を100万語分くらいしていること
2. 生徒一人一人の顔を見られること

(本当は「100万語分くらい」も外してしまいたいのですが、
職業として英語の授業をやっている人の中には数値目標を必要とする
人が往々にしているので、入り口として入れておきます。
実際に多読するうちに数値目標などは忘れてくれるといいのですが。)

当時から、これはそんじょそこらにないものでした。
なにしろ、この二条件さえ満たせばいいということは

教員免状などいらない!
試験の点数もいらない!
年齢も、職業も、ほかの要素は一切問わない!

要するに

いちばんやさしい絵本をたくさん読んでいて、
始めたばかりの人一人一人と本のことを語り合えること

だけが条件だというわけです。
目の前の人を思いやる気持ちさえあれば、だれでもできる・・・

上の二つのシンプルな条件は今もそのまま先生たちに伝えています。
「そんじょそこらにない」ことも今でも変わりません、残念ながら・・・

以下は最近届いたある児童英語教室の10年間の報告です。

先生、こんにちは。

最近、この秋、お教室を開いてから、ちょうど10年たっていたことに
気づきました。自分が多読を始めたのもほぼ同時。生徒さん達と一緒に
10年多読で楽しんできたんだなぁと、感慨深いものがあります。
お教室で多読を取り入れ始めた頃は、今ほど多読は今ほど普及していたものではなく、
(今もメジャーとは言いがたいですね)
教育関係で多読を取り入れているところは個人の教室の先生方が殆どだったと思います。
情報源や報告例がまだまだ少なくて、多読はいいとは思いつつ、自分がどのように
生徒達の多読をサポートしていくべきか、いつも暗中模索しておりました。

けれども、その分、その少ない範囲で、多読をすすめる方たちが精一杯情報を交換したり、
教室での生徒さん達の、身近で細かな変化の様子を伝え合ったりと、ちいさくともとても深い内容をお互い報告しあうことができて、その中でたくさんのことを学ばせていただいたと思っています。
あの頃にくらべて、ありがたいことに多読の本も、情報も随分と増えましたね。
多読に関する書籍も、多読本を取り扱うサイトも次々立ち上がり、今では学校で
多読を取り入れるところも随分増えました。研修などに参加したり、情報交換をしていると、そうした中での情報もあれこれと色々流れてきて、感心することも多々あります。
その一方、少し気になることも増えてきました。

個人教室からより多くの生徒さんを扱う大手の塾であったり、数十人のクラスで行う
学校の多読と広がっていくと、どうしても違った面が見えてきますね。生徒さんの成績、
保護者、学校関係の方への報告等がもちろん重要な要素になっていくので
多読の実績と言うものを目に見える形で示す必要がどうしても出るためでしょう、
その判断材料としての色んな多読の”数値”を目にすることがとても多くなりました。
多くの生徒さん達を相手に出した結果であるし、入試や、生徒さん達の進路のための
一つの指針、多読の効果をよりわかりやすく世間に広める効率のよい手段であるとは
思うのですが、毎日少数の生徒さん達と多読をしている自分には違和感を感じることが多いです。
少人数であれ、大人数であれ、生徒は一人一人違います。
育った環境も、本人の資質も、嗜好も、感じ方も、成長のペースも
それぞれです。

私の小さな教室でさえ、その個性は計り知れないくらいです。
書く、聞く、読む、話す、全てがとてもバランスよく成長される生徒さん。

本自体がものすごく好きで、いつでもどこでも日本語の本を読んでいるので
本の中から言葉を獲得していくと言う方法を既に身につけ、読むだけでどんどん伸びていく
生徒さん

音読がありえないくらい上手でものすご~くいつも上手に音読して
でも、あれれ??内容は??と、思わず頭を捻らせてくれる生徒さん

逆に音読がどこまでも苦手なのに、黙読でちゃんと読んでいて
読みながらくすくす、ぷぷっと一人で笑っていて
”ああ、ちゃんと分かってるんだ~”と、安心させてくれる生徒さん
発音が異常に綺麗な生徒さん

どういうわけか知らないけど会話がうまい生徒さん

作文がやたらうまい生徒さん

どうにも本がきらいだけど、お勉強に比べたら全然ましっと言いながら
きてくれる生徒さん

のほほん系の絵本や物語が大好きな生徒さん

理系で、数字や推理物が大好きな生徒さん

英語漫画命の生徒さん

みんなみんな本当に違うのです。

これだけ一人ひとりが違う中で、数値ってどれだけ参考になるのかなって
生徒さんを見るたびに不思議に感じてしまいます。
このくらいの本をこのくらいのペースで読む子はこの位成績が伸びて
このこの位の大学にいける。

この位の文章が読めるようになるには、この位の単語を知って
この位のスピードが必要
この位の文章を読むには毎日どのくらいの時間読む必要が。。。

このレベルの本を読んだ子はこのくらい成績が伸びて
この語数の本を読んだ子はこのくらい。。。

最近はそんな風に色んな先生たちがそんな数値の報告をしてくれます。
情報として有効なのかもしれませんが
でも、そんな分析をされながらの多読って何でしょうね。

多読の友人はこんなことを言います。

”それぞれ全然違うから数字を出して統一しようとするんだろうね。あるがままを受け止めずに。何でも数字、なんでも経済。大変そう。だいたい、たのしくないじゃんね。そんなこと考えてたら。”

”数字を客観的に評価してしまうと、どうしても大人は欲が出る。もっと、もっと、と。結局、成績が少し上がっても、学習習慣がついても、次へ次へと目標を上げて、
子供をしごくことになる。”

数値を出す先生たちがそれにすべて頼って生徒達を指導しているだなんて
いうことはもちろん無いのでしょうがどうも数字に多読の本当の魅力や
本当の力が多い尽くされていく気が。。

多読の楽しさ、魅力を感じる力、そうした数字では語れないものから
生まれる、これまで考えたことが無かったような効果の魅力、驚き。わくわく。

そういうことを、指導者自らが感じ、自分の体験として多読の魅力、効果を
伝えること。、もっともっと生徒さんを一人ひとり良く見て、
その子のペースにあったサポートをするための時間をとること。
その大切さをもっと広めたいと感じます。
大勢いたらそれは無理。。。なのかもしれないけど、
だからこそ、そういうことに気を配る。先生は、図書館の司書さんのように
楽しい環境をつくり、楽しい本をアドバイスすると考えれば
大勢の相手もけして不可能ではないと思うのです。
数字よりもっともっと大事な、本質的な事を
もっと掘り下げて考えていく、
せっかく学校等に広がっているのだからこそ、
そういう多読の取り入れ方をする英語教育になっていってほしいなぁと
思う今日この頃です。

他の人の多読を支えるということは「人」を相手にすることです。
報告の中の真ん中あたり、いろいろな子どもがいることが書いてあります。
報告を書いた人が一人一人をどれほどよく見ようとしているか、よくわかります。

試験や資格や数字で一人一人を見ることはできません。
それはわたしの考える「多読支援」とは縁のないものです。
数字を多読支援に持ち出すことはありますが、それは多読そのものではなく、
多読を巡る周囲を「なだめる」ためです。

大田桜台のSさん、福岡女学院大学中学校高等学校のSさんなどは
数字を実にうまく使って、回りを説得しています。
数字は使っているけれども、数字で一人一人の多読をどうこうしようとは
考えていません。この二人がどれほど「人間」であるか!

上の報告を送ってくれた人は大田桜台のSさんのことをちがうところで、
こう評しています。

伸びやかに生徒さんに多読をしてもらいながらちゃんと力もつけてるところもあって感心してる

もう一つ、このことについてメールが来ました。

数字を当てはめるほど、多読から遠ざかっていく気がする

まったくもっともです。
数字で抽象化、単純化してしまうのはよくよく気をつけなければいけませんね。

流されないために・・・ ピップ・エレキバンの謎

数週間前に、テレビで「ピップ・エレキバン40周年」という報道を見ました。

40年前のことが一気に蘇ってきました。
大学院の時の友だちが当時発売されたばかりのピップ・エレキバンをわたしに
見せて、「酒井さん、これ効くよ。酒井さんも使ってみたら」と勧めてくれたのです。
あれから40年--そしてピップ・エレキバンはまだ売っているのか!?

わたしたちはいかにも流されやすい存在ですが、それにしても、
ピップ・エレキバンは売れ続けてはいけない。それは無茶苦茶だ、とわたしは思います。

別に、ああいう磁気治療をうたう製品に効果はないから売れてはいけないと
言っているのではありません。ピップエレキバンは友だちのすすめにもかかわらず、
わたしは使いませんでした。その後も使ったことはありません。
だから、効果があるのかないのか、それはわかりません。

わたしが奇妙に思うのは、ピップ・エレキバンはこの40年間の間に一体
いくつ売れたのだろう? ということです。
ひょっとすると日本の人口の何倍もの数が売れたのではないだろうか?

それはおかしくないですか? ピップ・エレキバンの磁石は永久磁石だから、
もしよく効くのだったら、磁石の粒はそのまま取っておいて、
絆創膏だけを貼り替えればいい!

絆創膏が肌にくっつかなくなったところで、永久磁石の粒ごと捨てて、
新しいのを購入する・・・ それはどう考えてもおかしくないだろうか?
ピップ・エレキバンが永久磁石だということ、絆創膏がくっつかなくなったあとも
磁力線を発し続けていることには思いが及ばない。

(永久磁石はなぜ「永久」と呼ばれるのか?)

そこで、一気に英語の話へ・・・

わたしたちは流されていて、英語についても、
単語を暗記しなければ外国語は理解できない、
文法を知らなければ言葉は使えるようにならない、
英語の力はテストでわかる、
というようなピップ・エレキバンに囚われています。

そういう目くらましの絆創膏は目からはがさなければ・・・
そうか、それを「目から鱗」というのですね。

これからも流されないために記事を書いていきます。
おもしろい種があったら教えてください!

間違えること 多読アホリズム

Now stopping at Tokyo で始まった洗い流しに関わるアフォリズム集

* Now stopping at Tokyo の問題は「正しい表現は何か?」ではない。

* 洗い流すことで学校英語は実際使われる英語と別物であることが浮かび上がる。

* 学校英語という汚れはしつこい。何年経っても別物だということがわからないくらい・・・

* 外国語をしっかり使える人は「単なる道具」とは考えていないに違いない。

* 「外国語は単なる道具だ」という言い方には sour grapes の響きがある。
手の届かないところにある葡萄を「あれは酸っぱいに決まっている」というような・・・

* ことばはたしかに道具だ。しかし店で買ってきて終わりという道具ではない。
使って、磨いて、育てる道具だ。

* ことばは間違うことで磨かれる。

* こどもは何であれ間違わずに獲得することが出来る。

* おとなは間違うことでしか獲得できない。

* 洗い流しは間違いの確認ではない。さっぱりきれいにして吸収するチャンス!

半分は本気で箴言集のつもり

高校の時、現代国語の教科書に「ラ・ロシュフコーの箴言」というのが
入っていて、これがおもしろかったんですよ。高校の現代国語の教科書で
覚えているのはそれだけですね。

あれを真似したいもんだ!