流されないために 株はやめよう!

流されないためには景気の悪い話を書かなきゃいけません・・・

株はやめましょう。

株は「バブル」の典型です。
実質とは関係なく株価は上下します。

(一般に流通している「お金」もバブルつまり実体のないものですが)

経済最優先--このことばが日本の政治の何もかもを表しています。
その経済とは企業の利益です。わたしたち一人一人の利益ではありません。

そのためにいちばん注目される「株価」を操作したくて、
NISAとかいう新しい優先策を持ち出しました。
わたしたち余剰のお金のない人にも博打をさせて、
株価の表面を繕おうというのです。

流されないようにしましょう。

(ちなみにわたしは株は一度も買ったことがありません。)

流されないために・・・ 文科省の「人材」について

世の中どんどん金儲けの方へ流されております。

昨年12月13日に報道向けに発表された文科省の正式文書に
多読 の二文字が初めて入ったことはすでに書きました。

その後朝日新聞で「新しい教育」に関する特集が始まりました。
その第一回の記事には 「人材」 ということばが頻出します。

すでに何度も書きましたが、「人材」 は 「人間材料」 という意味でしょう。
文科省は教育を 経済的繁栄 の 材料を作るものとしか考えていないのです。
上の文書には人材ということばが頻出します。

そしてジャーナリズムの一端を担うはずの朝日新聞まで流されて、
「人材」ということばをそのまま使っている・・・ ああ、なんてこった!

(いや、それはわかっていたことです。
わたしが朝日新聞を紙で購読しているのは「ののちゃん」が読みたいからに
ほかなりません。いしいひさいちさんは暗夜の荒海を漕ぐわたしにとって灯台です。)

新年早々暗い話ですが、NPO多言語多読のフォーラムやブログに集う人もまた
わたしにとっては灯台です。なんとかかんとか闇の正体に灯台の光を当てて、
一つ一つ消していきましょう。いや、消えるものではないとしても、
衝突して沈没しないように、灯台を頼りに迂回航路を見つけていきましょう。

そういうわけでわたしにとっては、新年はみなさんとともに「明ける」のです。
今年もよろしくお願いします。

「字幕なし多観」へ向けて新しい旅立ち 年賀に代えて

あけましておめでとうございます。

年賀状も書かない、新年の挨拶回りもしない、年に二度のお歳暮も欠かさなかった
年がない--浮き世の義理をほぼことごとく欠くわたしが、新年を機に、
昨年末から兆した「字幕なし多観」へ、脱学校英語へと、新しい旅立ちをします。

なんて難しいことを書き出しましたが、実は年の瀬に
水曜講座受講生のYさんからメールをいただきました。
その引用をもって、新年の挨拶に代えようというだけのことです。

酒井先生

水曜午前講座の Y です

BooKTalkの原稿をお送ります

(Yさんの book talk の原稿はほとんどいただいてコピーしてあります。
はじめの頃からの変化についてはまたいつかじっくり、多読的スピーキング・
多読的ライティングの話題として書きます。)

追伸:
 最近の先生のブログや講座報告に関しての感想です

大変参考になっています

・自分と似たような体験をされている方を知り、驚いています

多読開始3ヶ月で、英語を話してて仕方がなくなった
(私の場合は、5ヶ月目位でした)

Jack Frost を見て、[強く動かされた]金曜講座の方
(私の場合は、涙がでそうな程度でしたが)

Kotobushiさんメール  話すことができないのは、心の問題
(ありようと言うべきか?)だとの指摘
(私は、英語を間違うことの恐怖心、羞恥心が無くなったので
教室では英語を口にすることができるようになった)

・多観について
自分の見方は、とにかく英語が聞こえなくちゃ、判らなくちゃ
と言う意識が強かったようです

Kotobushiさんのメールで、改めて多読の基本を思い出しました
人に話していながら、本当の所、判っていなかったのかと反省です

今週借りたDVD2本は、「らくちん」に「たのしんで」で観たいと
思っています。

「らくちん」に「たのしんで」--新年の見通しがぱっと明るくなりますね!

わたしも実は「人に話していながら、本当の所、判って」いない口です。
今年はしかし違いますよ、わたしは。

今年の New year’s resolution は「スロー・ダウン」と決めました。
「本当は判っていない」ところをじっくり見つめ直して、足固めをします。
自分のことも、NPOのことも・・・

Wish me luck, みなさん. I certainly need a big one.

みんなのうた ニュー・オーリンズからではないけれど・・・

つい最近「みんなのうた」で書いた Just a Closer Walk to Thee を
ロンドンで演奏している映像が見つかりました。

http://www.youtube.com/watch?v=jK2MLRlDWzo

Abram Wilson というトランペット吹きを送るパレードです。
Wynton Marsalis がいます。途中に Down by the Riverside、
最後にはAmazing Grace も演奏します。

18分もありますが、わたしは原稿書きをしながら繰り返し聞いています。

Part 2 は5分。こちらはいよいよ乗ってきて、これが葬送かというほど。

http://www.youtube.com/watch?v=3HXFzkX8sOY

でもこういうのがニュー・オーリンズの送り方なのでしょう。

「字幕なし多観」へ・・・ katobushiさんからメール!

前回の記事には今朝sloさんからメッセージが届きました。
わたしは「sloさんの定義によれば」と書きましたが、あれは定義ではないと・・・
「イメージ」だそうです。たしかに定義は固すぎましたね。

で、午後になってkatobushiさんからメールが届きました。
これもたしかにもっともなので、引用の許可をもらいました。

さかい先生

こんにちは。
先生のブログの最新記事がとてもとても気になって。。。

「字幕なし多観」の話をするときに、
「レベル」という言葉を使ってしまうのはまずくないですか?

上の同じ引用の中でわたしは
「気楽に見始めて、好みや自分のレベルに合わないと感じたらすぐに投げること」
と書いたのですが、そこがkatobushiさんは心配だった。

こういう「心配」が出てきて、メールをもらえるというのは、二重にうれしいです。
ひとつは「あ、ぼくより分かっている人がいる」といううれしさ。
もうひとつは、すぐにそういう懸念をメールでもらえること。
(二つ目はわかりにくいですか? ま、いいとしましょう。)

僕が多観を始めた時、「ORTのような」「簡単なものから」
という「レベル」を意識した質問をたくさんして、
しかもその後、ついにはオンライン大学を受講するにまで至った
「成功体験」として、記録に残ってしまっているというのが
なんともなんとも、申し訳なく思う今日このごろなのですが。。。

この「申し訳なく思う」というところもすごいです。
(わかりにくいですか? ま、いいとしましょう。)

先生がブログで書かれていることの真意を、よくよく分かっているつもりです。
でも、伝わらないんじゃないかなぁ。。。
誤解を招かないかなぁ。。。と、とても心配です。

「レベルを気にしなくていい」という言い方をしたとたんに、「レベルの存在」を
当然としてしまう危険が出てくる! その通りですね。

釈迦の耳に説法でも、書かずにはいられないので書きます。

「多読的スピーキング」と「字幕なし多観」は状況が似ていると思います。
別の言い方をすれば、「多読」とはずいぶん状況が違うと思うのです。

「正しく喋らなければ伝わらない」故に「間違えてはいけない」
「聴き取れなければわからない」故に「聴き逃してはいけない」

こういう「心の壁」から開放されないことには話にならない。。。
読むことに抵抗のないひとに、「やさしい本からはじめましょう」というのとは
まったく状況が違うと思うのです。

(読むことに抵抗のない人はほとんどいないので、状況は同じだと思いますが、
ここではそれほど大事な意見の違いではないです。)

「自分のレベルに合わなかったら投げる」ということは、
「自分のレベルに合うものがある」ということを暗示し、
その時、殆どの人にとって、「レベル」とは、
「どれだけ(音そのものから)台詞を聴き取れるか」
ということの尺度になってしまうだろう、と。。。

まったくその通りですね。

ぴ~ママさんの卓見、何人かのみなさんの劇薬シャドーイング報告、カエデさんの報告、
katobushiさんの今回の意見をきっかけにして、多読は大きく変わろうとしているかのようです。

時あたかも「多読」は普及の度を加速させ、それにつれてさまざまな多読が
出てきました。(きょう、調布の佐藤さんからそういう主旨のメールをいただきました。
近く引用します。)

いわばこういうタイミングでkatobushiさんから「レベル」という考え方そのものに
疑問が提出された・・・ (そういうことですよね、katobushiさん)
そうした「きっかけ」はどれも一つの方向を指し示していると、わたしには思われます。

講座の帰りにOKさんに「字幕なし多観」について聞かれた時、
僕はこんなふうにいいました。

何を観ても台詞なんてわかりっこない。
それでも面白いものはいくらでもある!
だから、この俳優さんが好き!とか、このロケーションが好き!とか
とにかく観たい!と思うものを観ればいい。
ただし、いきなりそうすることに抵抗があるなら、
あくまで「こころのリハビリ」として、
子供向けアニメとか、アクションものとか
視覚で理解しやすいものからスタートして、
「聴き取れないことに慣れてきたら」
(←絶対に、聴き取れるようになったら、じゃない!!)、
観たいものを観ればいい。

僕は、子供向けアニメをある程度聴き取ることが出来ました。
それも、3割わかれば全部分かった気になれるような、多読的な人間でした。
でも、子供向けアニメを聞き取れない人は?
3割聴き取れても、3割「しか」と考える人は?
カエデさんは上手くいったようですが、
挫折させてしまった人も沢山いると思うのです。。。

100時間かけて変わったのは、「耳」じゃなくて「こころ」だと、
自分の中に英語が溜まっているところまでは、
「こころ」が変われば聴こえるようになると、
そう言ってあげたほうが、背中が押せるんじゃないかと思ったりしています。
(そこから先は、先生の言う、
チャーチルなんたら、うなぎの臭いで飯を食う、なんでしょう??)

はは! その通り。でもね、tadokuの奇跡は 「臭いだけで味わえる」こと
なのですね。「楽しんだのは幻か?」と思いながら楽しみ続けると、
実質が伴ってしまうのですね。

最後にひとつ、報告を。
先日、アメリカ映画だと思って観始めたものが、フランス映画でした。
でも、ま、いっか、と最後まで観て、
途中3回くらいケタケタ笑って、2回くらいうるうるして、
最後はいい映画だったなぁと、いちょまえに感動していました。
「最強のふたり」という映画です。
もちろん、フランス語なんて全くわかりません。
katobushiさんは特別だ、なのか、
本来言葉がわからないなんてその程度のことだ、なのか。。。

ながながと失礼しました。

katobushi

ははは! katobushiさんが特別だとはわたしは思っていないのです。
思っていたら、他の人に道を示すことは意味がない。
でも、普通は「katobushiさんは多読講座を受けているから」と思われるのでは
ないかということで、「字幕なし多観」を大きな声で言わなかったわけです。
そこへカエデさんの報告がありました。いわばカナダ在住でも、受講生でも
ない「普通の人の報告」でした。((twitterで、「多読をしている人は当然
字幕なしで観ていると思っていたという感想もありましたが、
この方が「普通の人」かどうかはわかりません。)

途中にもいっぱいながながとしたコメントになりました。
これは長い時間をかけて説明しますが、一言で言えば
多読・tadokuは少しずつ表面的な事象を離れて、土台を確かめているのだと思います。
今回の「レベル」のこともそうです。語数を忘れてやさしい絵本をたくさん、という
訴えも土台へ帰ろうという趣旨です。「わかることより楽しむこと」というのも
同じです。けれどもこれは延々と続くのでおいおい・・・

土台は確かめずとも最初から分かっていたはずなのです。
でも告白すれば、わたしはずっとおずおずしていました。
土台をはっきり意識して、きちんと口にして、実行に踏み切るには
勇気が必要だった。その勇気をみなさんがくれたのです。