一つ前の記事のタイトルは飛躍していたかもしれません。
ことばの氷山が「英語学習者」の気持ちを楽にする--やっぱり飛躍していますね。
と思ったとたん、気持ちを楽にするのは「物語の力」かもしれないと気がついたのですが、
はたしてどうなんでしょうね?
単語暗記や文法問題集はわたしたちの気持ちをずたずたにするような気がします。
Ktbさんは英語は勉強したことがないと言っています。単語の暗記や文法問題集を
熱心にやったことはないのでしょう。
そのせいか、NPOの講座中に、「12って、twelve だっけ?」と回りの人にたずねて
愕然とさせたのですが、その次の講座だったか、その次の次だったか、
「twenty って、20?」と言い出して、みんなをさらに愕然とさせた・・・
ある人は「12 や 20 も知らない人がなんであんなに話せるの!?」とあきれていた。
そのKtbさんにして、やはり英語で傷ついていたらしいのです。
(英語で傷ついていない人なんて、いるんだろうか?
単語や文法が大切だと思っている人は傷に気づいていない幸せな不幸な人?
Ktbさんの最初の一文は英語という外国語の「罪深さ」を思わせます。)
“思っていた以上に私は英語に傷ついていた” 僕も最近そう思うようになりました。怯えてることを自覚してなかったって、本当に恐ろしいことだと思います…
↑ このツイートはカエデさんのメールをこのブログで読んですぐに送ってくれたようでした。
わたしはすぐに、「どういうきっかけで自覚したのですか? 自覚したあと、
どんな変化がありましたか?」とツイートを返しました。
その返信が次のツイートです。(行替えしてありますが、ことばは変えていません。)
はなほーの衝撃以来、多読は開放だ〜ってな感じでここまで来ました。だから、感じていたのは早かったのかもしれません。説明できるようになったのは最近です。開放って、つまり僕も傷付いてたんだ、と思って過去の報告を読み返したのです。我ながら傷つかないように予防線はりまくりでびっくりしました。
多読で何が一番大切か(間違えること、評価されることの恐怖から開放されること)そこに確信をもてたから自分の可能性を奪うものを遠ざけられたし、多読的な正論(らしきもの)に従いたい気持ちに振り回されることもなくなったんだと思います。
木曜講座のYさんも、口が軽くなったきっかけは「講座では間違えてもいいんだ」と
分かったことだった、と言っています。
(心の開放・解放ということは大事だと前から考えていましたが、
今まで考えていたよりももっともっと大事なことなのかもしれない。
引き続き考えてみます。)
「間違えること、評価されることの恐怖から開放される」と、
「自分の可能性を奪うものを遠ざける」ことができる
なんだか、多読そのものが壮大な「物語」になってきたかのようですね。
ファンタジーRPGのような言葉使いではありませんか!
想像力を果てしなく刺激されそうでなので、一気に現実に話を戻すと、
(いや、KtbさんやYさんの心の中で起きたことは現実です。
壮大な物語なのです。それは間違いない。二人の世界の見方を変えたのだから(!?)。けれども、だれでも簡単にその「物語」を了解するわけではなく、むしろ自分には関係ない
「ファンタジー」としか思えない人はたくさんいるはずなので、現実に戻すと)
ま、要するに単語暗記や文法学習などという「お勉強」を熱心にやった場合は、
相当思い切って気持ちを切り替えないと、ゼロまたはゼロ近くから始める人の自由さは
手に入りにくいということのようです。カエデさんはさいわい大きなジャンプができたのですね。
みなさん、どうやって「お勉強」と「多読」の溝を跳びこえたのですか?
きっかけは? そして跳びこえたあとどうなりましたか? よければ報告をお願いします。
みなさんから寄せられるたくさんの物語が大きな物語になっていきますように・・・
追記
「ことばの氷山」が気持ちを楽にしてくれるという言い方より、
「物語の力 The Power of Narrative」が心を軽くしてくれるという方が
分かりやすいかと思いましたが、そうでもないですね。
無理やり言えば、「単語や文法の正しさ」なんか放っておいて、
「物語の流れに浸る、はまること」がわたしを「点数、試験、資格、×」の恐怖から
解放してくれると・・・ でも、もうちょっと考えなきゃ・・・
もう一つ。Ktbさんは「開放」と書いています。普通は「解放」と書くと思うのですが、
「開放」と書くと、窓が開いて新鮮な空気が流れこむような感じがあります。
そこで、上のような用字になりました。見落としではありません。念のため。