フォーラムにも登場するカエデさんからメールが届きました。
お返事をかねてブログで感想を・・・
さかいせんせい、こんばんは、お久しぶりです。
名古屋と豊田高専での講演、オフ会はとても面白かったです。今更ですが、いろいろと失礼しました。
2月28日、3月1日はお世話になりました。ありがとう!
最近ブログに書かれている、ことばの氷山や物語の力について、色々思い浮かぶことがありました。
先生やみなさんの言っていることの言い換えでしかないと思いながらも、どんな些細な感想でもとあるので、書いてみることにしました。
自分のための「語り」でもありますが、つきあっていただければ幸いです。
どんな些細な感想でもわたしには貴重な研究資料になります。
というのも、多読・tadokuは最近見つかったばかりで、どんなことが分かるとその姿が明らかに
なっていくか、つまり「何を研究したらいいか」さえ分かっていないからです。
みなさんもぜひカエデさんのように「自分のための「語り」」をわたしに少しだけでも聞かせてください!
「正しく読め」と声高に言う人達が私は苦手です。外(辞書とか、文法書とか、フレーズ集とか)に言葉の定義を求めているうちは、ことばの氷山は育たないからです。
以前の私は英語のことばの氷山を持たず、ことばの海でおぼれていました。
一万近くの単語を覚えようと思っていたときは、本当につらかったです。意味だけではなくて、文法的に正しいかどうかだけでなくて、文脈的にこういう時に使って良いのかというところまで覚えなきゃならないってことを知った(というか腑に落ちたときは)底なしの泥沼に落ちた気分になりました。それはいつか英語を身につけることはできないという絶望になりました。ストレートにtadokuに入ってきた人達は、こんな感覚味わなくてすめばいいのですが。
最近気がついたんですが、思っていた以上に私は英語に傷ついていたようです。
(katobushiさんとみやさんが書いている「すべり読み」のことを思い出します。
お二人が心配しているように、多読をしている人たちが「わたしはすべり読みをしていたのではないか?
もっともっと正しく読まなければいけないのではないか?」と不安になり、傷つく人がいないことを祈ります。)
英語でもことばの氷山を得るには、どんなにあやふやで不確かでも、自分の感覚を中心に据えて、大切にするということが必要でした。単に意味や音やスペルを覚えるんじゃないんですよね。既に自分のなかに混沌としてあるものを英語の世界と枠組みで捉え直していくというか。英語の世界においてはまだことばを持たないこどもと同じで、英語の物語を得ることで、ただ漠然と膨大にあった経験が意味をなすようになるというのか。だから英語での物語(体験)は、びっくりするほど新鮮だったりもします。私の中にいる英語の人格はまだまだ小さなこどもです。
すでに自分の中にある「おもいで」と、本の(ドラマでも映画でもAudibleでも漫画でも現実の状況でもなんでも)の物語が呼応して新しいことばが根付いていくのがtadokuなんだと思っています。日本語の世界とはまったく違う新しい経験とことばを得ることもあります。
うーん、↑ このあたりでカエデさんが感じていること、考えていることはまったくわたしと同じです。
(わたしよりずっと心に沁みる文章ですが・・・)
カエデさんはいつから多読を始めたのだったか?
(そうか、カエデさんの最初の投稿を読んでください。
カエデさんの心の眼(?)のなんと澄んでいて、深くまで届いていることか・・・!
ところで、「物語の力」は「物語の力」で良いと思います。私は物語=フィクションとは思いませんけど、日本語も難しいですね。
ほかにも、停滞についてとここ数ヶ月ぐらい日本人としてのアイデンティティが揺らいでいる(英語を使う人?としてのアイデンティティがうまくなじんでいない)というのとtadoku仲間の重要性と、色々思ったことはあったんですが、書いているうちにかなり遅くなってしまったので、またまとまったらメールします。それでは、失礼いたします。
カエデ
「物語の力」にしましょう、当面は。
The Power of Narrative では日本の英語関係者の想像力を超えすぎるだろうな。
カエデさん、ありがとう。また停滞について、日本人らしさについて、仲間について、そのほか
いろいろ書いて送ってください。ものすごーく、楽しみにしています!