多読のパラドックス

多読の広がりについて

先日、文科省の公式文書に 「多読」 の文字が載ったという記事を
書きました。学校への広がり・浸透がやっと緒に就いた感があります。
つい数日前、原稿書きの資料探しでグーグルを使って、
「多読」という文字を検索しました。驚くなかれ、1000万件近くヒット!
本当?と訝しく思いましたが、ま、そういうヒット数が出るものなのだとしましょう。

けれども、問題は広がり方です。調布の佐藤さんが、「週刊エコノミスト」
という雑誌の言う「多読」について書かれた記事を知らせてくれました。

 こんにちは。調布の佐藤です。

今日発売の「週刊エコノミスト2014年12月31日・1月7日合併号」(毎日新聞社)が第2特集で英会話を取り上げています。

週刊エコノミスト
2014年 12月31日・1月7日合併号
毎日新聞社
特別定価700円

 1月6日発売の2014年1月14日号の特集も英語に関係した内容です。こちらは語学の話ではなく、経済の話のようです。

英語と経済
金融を支配する覇権言語になった理由/世界は多言語化へ

今年こそ 本気で英会話
111ページから118ページまで

115ページの左上に「英字新聞、雑誌を読むには単語の学習が効果的」と題した編集部執筆の囲み記事があります。添付したPDFファイルは、そのページです。

「多読」という言葉が広がりましたが、ここで使われている「多読」は誤用というか、私たちが使っている「多読」とは違うのでメールを書きました。「単語」、「学習」とか書いている時点で、「多読」の本質を失っていると思いました。このような「多読」の使い方をするから、英語で苦労する人々を量産し続けているのでしょう。このような形で「多読」がビジネスパーソンに認識されると迷惑です。

ただ、週刊エコノミストは週刊経済誌(日経ビジネス、週刊東洋経済、週刊ダイヤモンド)の中では部数が最少です。

今、オフィスで仕事中です。

調布の佐藤

ま、「誤用」ですね。けれども、今は「単語」や「学習」などと結びつけた、
本質を見失った多読が、ずいぶん広がっています。
学校では旧来と変わらず辞書と文法分析を使った「多読」が
当たり前のようになっています。

裾野が広がると言うことは初期の考え方が薄まるということなので、
学校ではそうなるだろうということは予想していました。
けれども、社会人の間でもそうなるとは・・・
(多読の初期を支えて広げたのは30代40代を中心とする人たちだったのですが。)

マイナス面として、わたしはずいぶん前からこのまま単語や学習を伴う多読が学校に
入っていくと「多読があるから英語は嫌い」という生徒が出てくると予想しています。
調布の佐藤さんの「予言」・・・

このような「多読」の使い方をするから、英語で苦労する人々を量産し続けているのでしょう。このような形で「多読」がビジネスパーソンに認識されると迷惑です。

・・・が当たると、多読は社会人をも苦しめることになるでしょう。

ま、それはしかし普及に伴う当然の変化であります。
わたしたちは変わらずにいましょう。
「ポピュラー多読」で多読を知った人の中で5%くらいは、いつかこのサイトに来て

「元々はそういうことだったんだ!」

と目覚めてもらいましょう。

このサイトに集う人たちの仕事は尽きません。がんばりましょう・・・!

「字幕なし多観」へ・・・ katobushiさんからメール!

前回の記事には今朝sloさんからメッセージが届きました。
わたしは「sloさんの定義によれば」と書きましたが、あれは定義ではないと・・・
「イメージ」だそうです。たしかに定義は固すぎましたね。

で、午後になってkatobushiさんからメールが届きました。
これもたしかにもっともなので、引用の許可をもらいました。

さかい先生

こんにちは。
先生のブログの最新記事がとてもとても気になって。。。

「字幕なし多観」の話をするときに、
「レベル」という言葉を使ってしまうのはまずくないですか?

上の同じ引用の中でわたしは
「気楽に見始めて、好みや自分のレベルに合わないと感じたらすぐに投げること」
と書いたのですが、そこがkatobushiさんは心配だった。

こういう「心配」が出てきて、メールをもらえるというのは、二重にうれしいです。
ひとつは「あ、ぼくより分かっている人がいる」といううれしさ。
もうひとつは、すぐにそういう懸念をメールでもらえること。
(二つ目はわかりにくいですか? ま、いいとしましょう。)

僕が多観を始めた時、「ORTのような」「簡単なものから」
という「レベル」を意識した質問をたくさんして、
しかもその後、ついにはオンライン大学を受講するにまで至った
「成功体験」として、記録に残ってしまっているというのが
なんともなんとも、申し訳なく思う今日このごろなのですが。。。

この「申し訳なく思う」というところもすごいです。
(わかりにくいですか? ま、いいとしましょう。)

先生がブログで書かれていることの真意を、よくよく分かっているつもりです。
でも、伝わらないんじゃないかなぁ。。。
誤解を招かないかなぁ。。。と、とても心配です。

「レベルを気にしなくていい」という言い方をしたとたんに、「レベルの存在」を
当然としてしまう危険が出てくる! その通りですね。

釈迦の耳に説法でも、書かずにはいられないので書きます。

「多読的スピーキング」と「字幕なし多観」は状況が似ていると思います。
別の言い方をすれば、「多読」とはずいぶん状況が違うと思うのです。

「正しく喋らなければ伝わらない」故に「間違えてはいけない」
「聴き取れなければわからない」故に「聴き逃してはいけない」

こういう「心の壁」から開放されないことには話にならない。。。
読むことに抵抗のないひとに、「やさしい本からはじめましょう」というのとは
まったく状況が違うと思うのです。

(読むことに抵抗のない人はほとんどいないので、状況は同じだと思いますが、
ここではそれほど大事な意見の違いではないです。)

「自分のレベルに合わなかったら投げる」ということは、
「自分のレベルに合うものがある」ということを暗示し、
その時、殆どの人にとって、「レベル」とは、
「どれだけ(音そのものから)台詞を聴き取れるか」
ということの尺度になってしまうだろう、と。。。

まったくその通りですね。

ぴ~ママさんの卓見、何人かのみなさんの劇薬シャドーイング報告、カエデさんの報告、
katobushiさんの今回の意見をきっかけにして、多読は大きく変わろうとしているかのようです。

時あたかも「多読」は普及の度を加速させ、それにつれてさまざまな多読が
出てきました。(きょう、調布の佐藤さんからそういう主旨のメールをいただきました。
近く引用します。)

いわばこういうタイミングでkatobushiさんから「レベル」という考え方そのものに
疑問が提出された・・・ (そういうことですよね、katobushiさん)
そうした「きっかけ」はどれも一つの方向を指し示していると、わたしには思われます。

講座の帰りにOKさんに「字幕なし多観」について聞かれた時、
僕はこんなふうにいいました。

何を観ても台詞なんてわかりっこない。
それでも面白いものはいくらでもある!
だから、この俳優さんが好き!とか、このロケーションが好き!とか
とにかく観たい!と思うものを観ればいい。
ただし、いきなりそうすることに抵抗があるなら、
あくまで「こころのリハビリ」として、
子供向けアニメとか、アクションものとか
視覚で理解しやすいものからスタートして、
「聴き取れないことに慣れてきたら」
(←絶対に、聴き取れるようになったら、じゃない!!)、
観たいものを観ればいい。

僕は、子供向けアニメをある程度聴き取ることが出来ました。
それも、3割わかれば全部分かった気になれるような、多読的な人間でした。
でも、子供向けアニメを聞き取れない人は?
3割聴き取れても、3割「しか」と考える人は?
カエデさんは上手くいったようですが、
挫折させてしまった人も沢山いると思うのです。。。

100時間かけて変わったのは、「耳」じゃなくて「こころ」だと、
自分の中に英語が溜まっているところまでは、
「こころ」が変われば聴こえるようになると、
そう言ってあげたほうが、背中が押せるんじゃないかと思ったりしています。
(そこから先は、先生の言う、
チャーチルなんたら、うなぎの臭いで飯を食う、なんでしょう??)

はは! その通り。でもね、tadokuの奇跡は 「臭いだけで味わえる」こと
なのですね。「楽しんだのは幻か?」と思いながら楽しみ続けると、
実質が伴ってしまうのですね。

最後にひとつ、報告を。
先日、アメリカ映画だと思って観始めたものが、フランス映画でした。
でも、ま、いっか、と最後まで観て、
途中3回くらいケタケタ笑って、2回くらいうるうるして、
最後はいい映画だったなぁと、いちょまえに感動していました。
「最強のふたり」という映画です。
もちろん、フランス語なんて全くわかりません。
katobushiさんは特別だ、なのか、
本来言葉がわからないなんてその程度のことだ、なのか。。。

ながながと失礼しました。

katobushi

ははは! katobushiさんが特別だとはわたしは思っていないのです。
思っていたら、他の人に道を示すことは意味がない。
でも、普通は「katobushiさんは多読講座を受けているから」と思われるのでは
ないかということで、「字幕なし多観」を大きな声で言わなかったわけです。
そこへカエデさんの報告がありました。いわばカナダ在住でも、受講生でも
ない「普通の人の報告」でした。((twitterで、「多読をしている人は当然
字幕なしで観ていると思っていたという感想もありましたが、
この方が「普通の人」かどうかはわかりません。)

途中にもいっぱいながながとしたコメントになりました。
これは長い時間をかけて説明しますが、一言で言えば
多読・tadokuは少しずつ表面的な事象を離れて、土台を確かめているのだと思います。
今回の「レベル」のこともそうです。語数を忘れてやさしい絵本をたくさん、という
訴えも土台へ帰ろうという趣旨です。「わかることより楽しむこと」というのも
同じです。けれどもこれは延々と続くのでおいおい・・・

土台は確かめずとも最初から分かっていたはずなのです。
でも告白すれば、わたしはずっとおずおずしていました。
土台をはっきり意識して、きちんと口にして、実行に踏み切るには
勇気が必要だった。その勇気をみなさんがくれたのです。

多読のパラドックス 子離れ熟成篇

去る者は日々に疎し--語学学習ではこれは特に実感を持って語られる
ことわざでしょう。けれども、「去るとも日々に親し」というパラドックス!

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多読支援は簡単な場合は、ひどく簡単で、複雑な場合はひどく複雑・・・

特に家庭内の場合は、複雑になるとどんどん複雑になって、
解きほぐすのは大変!ということがあります。

どういう場合には「簡単」か?

ある程度はっきりしていると思いますが、親が子どもを離れた自分の生き方を
持っていると思われる場合は、比較的親子多読がうまくいくようです。

そういう場合と思われる例をあるブログから紹介します。

【YYYの多読】支援三原則を守って、見守ることの大切さ。

ひょんなことから、今週末にNPO多言語多読(TADOKU Supporters)の事務所に遊びに行くことになりました。英語絵本の読み聞かせの会です。

で、もちろん私も絵本を1冊選んだのですが、一緒に行くYYYにも、「今回は絵本の読み聞かせの会だから、YYYも1冊選んで読んでね。」と言って選んでもらいました。

最初は、大好きなBiscuitを持ってきたのですが、7月にNPOの事務所に行って様子がわかっているからか、「この本だとちょっと小さいかな。もうちょっと大きな絵本がいいよね。」と言って別の本を持ってきました。

お~、この本は、私が10年近く前、児童英語の先生になったばかりの頃に教材として使っていた本ではないですか! YYYの部屋にあったらしいのですが、「なんか、懐かしかったから」と言ってました。

実は、ここだけの話ですが(笑)、YYYの多読は大停滞期に入ってます。体を動かすことが大好きで、もともとあまり本を読まない子です。図書館や書店で本を見るのは好きで、月2~3回は市立の図書館で本をかります。今は歴史まんがに凝っているようですが、かりた本を読むのは本当に時々。そんなYYYですから、英語の本は最近まったく読んでいません。去年の夏に33万語くらいまで読んでからは完全にストップしていて、とうとう6年生になってからは長期休みの課題にすら入れてもらえない始末・・・。

来年からは中学生になるし、母親としては少し焦る気持ちもあって、酒井先生にもお話ししたのですが、「放って置きなさい」のひと言で・・・。本当に今のままでいいのかな~と正直かなり不安になっていました。

YYYさんに限らず、こどもが「勉強」しないときに、放っておくのは、
かなり大変です。どうしてもちょっかいを出したくなる。それはわたしも同じでした。
--できるだけ子どもの生きたい道の邪魔にならないようにとは思うものの、つい・・・

でも、自分ではちゃんとできなくても、かなりの数の親子を見てきて、
放っておく、これは親の義務の第一ではないかと思っています。
「親はあっても子は育つ」場合もありますが、概して親が口を出していいことはない。

おっと、この話題は長くなります。戻りましょう。

で、最初にYYYに、「読み聞かせでさ、一番大切なことって何だっけ?」と質問してみました。返ってきた答えは・・・

「絵を見てもらうこと」

あ、なんだ、わかってるんだ。ちょっとホッとしました。

じゃ、とりあえず、一回読んでみて、と言うと、なんと、なんと・・・

実にすらすらと、実に普通に、読みました(驚)すごく久しぶりに開いたか、もしかしたら一度も自分では読んだことのない本を。まるで日本語の本を初見で読むような感じで。(発音できない単語が1個だけあって、すごく久しぶりに止まって私の顔を見ました・笑)

英語に関しては何も言うことがありませんでした。ここはもうちょっと間を取った方がいいよね、とか、この絵はゆっくり見てもらいたい絵だよね~とか、どちらかと言えば絵本の見せ方に関することだけで、そこだけ練習すればいいのかも・・・、と思いました。

自分自身も多読をしていて、何人かに多読の支援もしていて、今回のYYYの件も含めて多読って本当に不思議だな、と思うのは、例えば何かの事情でしばらくお休みをしたり、読めない期間があったとしても、直前まで読んでいたものはきちんと体に(頭に?心に?)残っていて、時間が経っても後戻りすることなくそこに戻れるということ。

中には、中断前より難しい本が読めるようになった、って言う人がいるということ。

読んだ語数が減らないように、体(頭?心?)に溜まった言葉も減らないのかな。

絵を見ること! うーん、子どもの直感はすごい・・・ すごい・・・

これはここ数年強調するようになりましたが(もっと前からだったかな?)
おとなはこれを分かるのに苦労します。わたしも、5年くらい前まではそこまで
絵が大切だとは思っていなかったのではないかな? 単に「絵が多い方が
入門しやすい」という程度の認識だったと思います。

NPOの多読講座でははじめのうちは字を隠して絵だけを見てもらいます。
英語の勉強に来たのに、英語を見せてもらえない!というわけで、
みなさん、半信半疑で講座に入って行きます。でも・・・

「ことばは白い活字の上に印刷した黒い活字ではない」

わけで、どうしてもことばの生まれた場面と、言葉を出す人の表情と一緒に
体に吸収する必要があります・・・ありますが・・・ 長くなるのでこれはまたいつか。

たぶん、YYYさんの場合も、頭ではなく、心と体と頭と、(ひょっとすると仮想的には
筋肉も使って)全身で絵本を受け止めたんでしょうね。そうすると、もう歩いたり、
走ったり、息したりするのに近くなって、かなりの時間離れていても消えたり、
忘れたりしない? だからこそ、しばらく停滞があっても、それはむしろ熟成のために
必要だったりする?

停滞期間の熟成--これは多読の謎の中でも相当大きい!

酒井先生の言うとおり、多読に関しては今後もYYYに言わないようにしよう、と思いました。YYY自身がいつか必要だと感じた時には、本はいつでもあるんだし。

何か、よかったな。YYYにはちゃんと多読の種が根付いているんだ。私が何も心配しなくても、枯れてないんだ、と実感できました。

ブログの引用を許してくださって、ありがとう!

最初に出てきた多読支援三原則については先生向けにいつも話していますが、
ブログではあまり言っていなかったと思うので、書いておきます。

<多読支援三原則>

1.教えない

2.おしつけない

3.テストしない

学校の先生に嫌がられるのも無理ありませんね・・・
けれども、多読三原則と多読支援三原則はことばとわたしたちの関係を
いちばん底から見直す機会を与えてくれるのだと、今にして思います。
そして多読はどうもかなりことばを身につける時の根本的な土台に関わっている
かもしれないと思います。

なお、次回のNPO多言語多読「絵本読み聞かせ会」は11月10日です。
詳しくは・・・

http://forum.tadoku.org/viewtopic.php?f=9&t=2022&p=7671#p7671

シャドーイングに徹する I さんのまとめ

「旧町の名前をひとつ」で、電通大の卒業生 I さんのすさまじいシャドーイングについて報告しました。

今回はI さんによるまとめです。

2013年9月 5日
シャドーイングのまとめ

筆者のシャドーイングレベルは、英語の音はほとんど聞こえているが、
意味の分からない文章もあるという状況。

シャドーイングをやって至った結論は

あたりまえだけど

「人間は生まれて初めて聞く音は理解できない」

言い換えると

「過去に聞いたことの無い音や聞きなれない音は異音であり、雑音であり、意味を成さない音にすぎない」

詳しく説明すると、人間の目や耳から入る情報は、実際に聞こえたり
見たりしているというよりはむしろ、感覚器官に入った情報を基に、脳内でそれらを
再現していると言ったほうが良いのではないかと思う。

そう仮定すると、英語学習を阻害する日本語フィルターの説明がうまく収まる。
つまり脳内で英語を再現するときこの日本語フィルター作動してしまうと考えられる。
脳内で英語の音、文字を再現するときに作動するフィルターが英語の上達を妨げる原因と推定される。

I さんの言う「日本語フィルター」は前からわたしが言っていることを同じようです。
つまり、学校英語の音が頭の中にこびりついて生の英語の音を脳に到達させないのだと
わたしは表現してきました。

劇薬シャドーイング(酒井先生命名、筆者としては解毒シャドーイングまたは、リンスシャドーイングと表現したい)
は知らない言語を用いることで、脳を戸惑わせ、フィルター作動機能を凍結させるのある。
または、多量に音を流し込むことにより、フィルタリング処理をわざとオーバーフローさせ、強制的にできない音を飛ばす訓練かもしれない。
初めてのこと、知らないことに急にでくわすと、動作も脳の思考も一瞬固まる経験があるだろう。
まさにそれを実行するのが劇薬シャドーイングであり、
この脳内で勝手に作動する日本語フィルターを凍結させる訓練なのである。
不幸にして、脳内に日本語のフィルターができあがっている人は劇薬シャドーイングが必要と思う。

その通りです、わたしの意図は。

以前から使おうとしてためらってきた言い方では、劇薬シャドーイングで「洗脳」しよう
というのがわたしの意図でした。まったく理解できない音を脳に注ぎ込んで、「判断力」を
麻痺させてしまうこと--それを長い間やりたかったのですが、劇薬シャドーイングが
(「解毒シャドーイング」の方が少し柔らかくて、わたしの意図にも合っているかもしれません!)
ついに「洗脳」を可能にしてくれたように思います、今のところは。

そういう意味では、英語をまったく知らないほうが、多読にしろシャドーイングにしろ
大変有利と思う。英語をなまじ知っているほうがハンディーまたは病気、障害であり
治すほうに時間がかかってしまう。まったく英語を知らない子供やお年寄りに多読の天才が生まれるのはそのせいだと思う。治す時間や日本語フィルターが無いからだと思う。
劇薬シャドーイングはフィルター凍結訓練が目的であるので、うまく発音しようとかは考えないほうがよい。
だから音を間違って言っても、言えなくても単純に口を動かすことだけに専念すべきだ。

まさにその通り! 劇薬シャドーイングでも普通のシャドーイングでも、最初の目標は
声を出し続けること。言葉になっている必要はありません!

筆者の推測だが、ネイティブは英語の文章を単語や文字を全部言っていないし、聞こえていない。
欠落すると文章が再現できなくなるキーになる音だけを聞き取り、脳内で英文を再現できているのだと思う。
要は全部言わないので、英語と言うのは手抜き的な会話に必要な消費エネルギーが最小になるような省エネ的な会話になっているとでも言っておこう。
この英語の特徴を知っておかないと、無駄に発音練習したり、全単語すべて発音しようとする
わき道にそれてしまう恐れがある。

いや、シャドーイングに徹したことで、たくさんの洞察を得ていますね!
「無駄に発音練習したり」、「全単語すべて発音しようとする」ことは「わき道」と喝破しています。

まったくです。発音練習を一生懸命やると、全単語どころか全文字をすべて発音しようと無駄な努力をすることになります。

シャドーイングの練習方法にもつながるが、英語のキーになる音さえシャドーイングで言えれば、
ほかの変な音が言えなくても合格点なのだ。音を飛ばしても良い理由がご理解いただけだろうか。
だから安心して音を飛ばして欲しい。この練習を続けると、飛ばした音が、前後の言えた音から補完できるようになる。
例を挙げるとこれはBBCの気象の話題からであるが、
We’ve been talking about Brazil.はWe,Talkin,abou,Brazilしか聞こえない。これで十分意味は分かるけど多読を併用し、音と文字が一致してくるとWeとTalkinの間に have beenがあることが感覚的にわかってくる。
そうなると、We,Talkin,abou,Brazilを聞いただけで、脳内でWe’ve been talking about Brazil.が再現できる。
そのときがくるまで練習して待ちましょう。必ずその時がきます。
このhave beenを聞き取るなんて無理です。はっきりと言ってないから聞こえないためです。
そういう細部にこだわったhave beenなど一字一句を聞き取る練習は必要ないと思う。

一字一句聞き取る練習は必要ないのです、原理的に!
それはディクテーションは無駄だという表現で何度も書いてきました。

(なお、わたしはディクテーションだって、一つ一つの発音練習だって、他の人に輪を掛けて一生懸命やりました。極端形にならないように「発音練習」したり、聞こえない音を落とす練習もしました。その上で、わたしはあれはすべてまったく無駄だったと思っています。嗚呼!)

英語圏の現地で英語音と、状況場面を目で確認できる環境であれば、音のみである会話のレベルの上達が期待できると思う。
非英語圏で英語の上達を期待するならば、視覚に訴える絵本や映像があると効果的と思う。
また、音だけでも英語上達には片手落ちとなる、会話はできるが文字が読み書きできない人がいることからそれは理解できると思う。だからキーになる音と英文を結びつける練習がある一定のレベルから必要と思う。

I さんのユニークなところは 音 が先に来て、それを 文字 と結びつけるという順番なのですね。
普通はその逆ですもんね、日本では。

シャドーイングの効能の一つにリスニング力の強化があるが、
音を口に出すためには、全神経を尖らせないと難しいのはシャドーイング経験者ならすぐご理解いただけると思う。
これは全神経で外国語音を受け止めるから、脳が非常に活性化し潜在意識に残りやすい。
一方よくある聞き流しは、全神経を尖らせないのため耳から耳へと抜けるだけで効果は低いと思われる。
潜在意識に音を刷り込ませるには、何でもいいから口を動かすこと。
つまり、体で覚えると言うことと思う。体を使えさえすればいいので
極論すれば、外国語の音にあわせて手足を振って踊るのでもいいのかもしれない。シャドーイングはいわゆる体で覚えるという作業に近い。

これもまたその通りです。はまこさんを思い出しますね、古参の仲間なら。
はまこさんの踊るシャドーイングを始めて見た時は本当にびっくり仰天したのでした。

シャドーイングで質より量を求める(多読でも同じこと)のは、
全神経を尖らせた状態で潜在意識に多量の外国語の音を脳にしみこませることで、
強制的に聞き覚えのある音にしていくのが目的と思う。
だから、はじめからネイティブみたいなきれいな発音を追いかけるのは無理だし無意味な努力である。
それよりか量を求めるべきである。
当初聞きなれない外国語の音でも、何度も意識的に聞いていたら、聞きなれるし、聞き覚えが出てくる。
つまり知らない気持ち悪い、わけの分からない音ではなくなり、口ずさみたくなる。
口ずさみたくなるということは、脳で音を覚えているということで、これまでまったく間に合わなかった
ナチュラルスピードのシャドーイングに着いていくことが可能になる。

筆者が酒井先生に、アフリカから日本帰国の経由地のロンドンに降り立ったら、まるで日本に帰国したかのような心地よい気持ちに包まれると言ったことがある。もちろん、英語が理解できるのからという理由だけではなく、知らない単語があって、聞こえた英文が理解できなくともシャドーイングにより潜在意識に英語音が刷り込まれているため、ロンドンでは、聞こえる音が全て、気持ちよく感じる。知らない英文であったとしても聞いたことがある音が必ずまぎれているので、まったく英語に対する恐怖感というか、外国にいる不安感というものが感じられない。逆にまったく知らない言語、どこかの先住民族が話すような環境の中に行けば、不安感があると思う。

お見事です。英語の音が体の奥底まで沁み込んでいなければ、「日本に帰国したかのような心地よい気持ちに包まれる」なんていうことは起こらないのでしょうね。うらやましい境地です。

筆者のシャドーイングに関する結論としては、シャドーイングではきれいな発音よりも量を求めるべきである。

筆者のこれからの目標は、文字なし絵本の多読から初めて、CDで読み聞かせ絵本を利用し、
脳内に焼きついた英語の音と結びつけることだと思う。

おもしろいですね! 大方の方向とまったく違うところから多読に迫ることになります。

でも、それこそ をさなごのやうに ですよね。I さん、報告を楽しみに待っています。
安佐北中学校をよろしくお願いします!

始まったと思ったらいきなり ところで・・・ 学校英語を洗い流す/多読のパラドックス

近く出版の運びとなるはずの学研の本の打ち合わせで、

by the way = ところで

という一対一対応に話が及んで、みんなで大笑い。つまり・・・

学校では「by the way = ところで」と習うので、英語で話をするときに
「ところで」を by the way と英訳してしまいます。
それが実はおかしい場合があることは、例によってわたし自身、
痛烈な「失敗」をしてはじめて分かったのでした。

だれだったか忘れましたが、ある英語母語話者がわたしに

「なんで日本人は by the way と言ってから話が戻ってこないのか?」

一瞬何のことか分からなくて、でもすぐに分かって、自分の誤解に愕然としたのでした。

by the way はそういえば 話の本筋にちょっと離れた話題を持ち込んで、
でもそれはとても軽い話で、すぐに元の本筋に戻ることが基本らしい・・・

(ま、例によって「基本」だから、そうじゃないこともあるでしょうね。
あらゆる例を確かめたわけではないです。実際、「ところで」の意味で
いつも使っているけれど、文句を言われたことはないという人がいます。
もっとも、「文句を言ってもいい」関係になっていないと文句は言って
くれないことがあります。これはいつか「ネイティブ・チェック」について
別に書きましょう。覚えていれば・・・!)

一方、「ところで」は話題を変える場面で使いますね。
もし by the way =ところで なら、by the way と言って話題を変えていいけれど、
by the way = ちょっとだけ本筋から脇に外れるけどね という決まり文句だと
すると、「なぜ元に戻ってこないのか!」という不審、疑問、疑い(わざと話題を
かえようとしているのではないか?)と思われることになりかねませんね。

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・・・という話を今週の火曜日に学研との打ち合わせでしたところ、
木曜日にある人が by the way のあとで元に戻る例を見たそうです。
それは Star Trek の中だったそうですが、いずれDVDが出たら確かめますね。
そしてどんな場面か紹介します。

そのある人は 「アンテナが立つとどんどん引っかかってくる」と言いました。
そうなんです。辞書を引くと、その語にすぐに出くわす、という経験のある人は
多いでしょう。それが多読のすごいところですね。大量の英語に触れるので、
気にし始めた表現にはすぐに出会うことになる・・・

それにしてもだれが by the way =ところで にしたんでしょうね?
そして、それが少なくとも60年くらい修正されなかったのはなぜでしょうね。
わたしの見るところ、それが 学校英語のしつこさですね。
早い時期に覚えたずれにはなかなか気がつかない・・・