多読のパラドックス

「絵=映像」から始まる 反響続き

反響は、Facebookからも、twitterからも、メールからも来ます。
今回の最初は Mさん・・・

私は、出発時点では後者タイプで、GRから児童書を経て快読300万語PBへの道を約1年半で突っ走りました。が、幸い、”こどものために”という大義名分があったおかげで絵本の道にも迷い込み、はっと気付いたら森の中でさまよって抜け出せなくなり、現在に至っています。なので、出発点が「絵」や「映像」ではなく「文字」寄りだった後者タイプでもぜんぜん大丈夫ですよ~。かなりまわり道しちゃったのかもしれませんが、”文字→さまざまな絵、映像”という流れもありだと思いますし、それはそれでよかったのかなーと今は思っています。今、多読9年目ですが、おかげさまで、2,3年前に、字幕なし多観の道、劇薬シャドーイングの道、多言語の道、オンライン大学の道、英語おしゃべりの道などの脇道も沢山発見し、ますますtadokuの森の中の道を奥へ奥へと進んでいるようです・・・。さて、この先いったいどうなってしまうのか・・・森を抜けだす日はいつか来るのか・・・今後が楽しみです。

GRで始めた人が絵本に移れて、字幕なし、劇薬シャドーイング・・・ と進めたのは
幸運でしたね!

もう一つはモーリンさん・・・

酒井先生、こんにちは。
また、ブログを読ませてもらっての感想です。

僕は言葉を身に付けるには「原風景」や「原体験」が必要と思います。これは、実際に体験するのが一番ですが、架空の体験でも可能だと思います。
架空の体験の場合、その「濃さ」によって体への染み込み方が違うように思います。一般的には、映像つまり映画やドラマが本より優れ、漫画の方が絵が多い分小説より優れていると考えられます。ただし、僕の場合は日本語では漫画でも映画以上にのめり込めるので「濃い」体験ができるようです。

僕は大学4年の秋に就職活動が始まるまで(僕らのころは4年生の10/1が解禁でした)、本はほとんど読みませんでした。しかし漫画は小1から読みはじめ、特に中2からは環境にも恵まれ近くの本屋でほぼ毎日2時間立ち読みしていました。読んでいたのは、サンデー、マガジン、チャンピオンなどの少年誌からビックコミックスピリッツとオリジナルといった大人用のものまで読んでいました。特にストーリー漫画が好みで手塚治虫や横山光輝のものや「巨人の星」、「あしたのジョー」など結構難しいものも読んでました。また、僕は読むのが超遅読で1冊を読むのに2時間ぐらいかけてました。でも、そのなかでいろんな言葉を身に付けてました(たとえば、「巨人の星」で「上座」を覚え、「浮浪雲」ではいろは歌を覚えました)。これらは覚えようとして覚えたのでなく勝手に身についていったのです。たぶん、字ずらだけを読むのでなく絵もよく見て想像もしながら読んでいたのだと思います。つまり、漫画を精読していたわけです。

独眼竜さんのおっしゃる多読的精読とは違うのかもしれませんが、漫画や小説でもこのように深く入り込めば濃い「原風景」や「原体験」を得ることができ、言葉が体に染みつくのではないかと思います。

余談ですが、中学の時はよくわからなかったのですが、高校になって試験がよくあるようになると現国は、勉強もせず遅読のために最後の問題まで解けなくても学年で常に5番以内でした。試験の成績で実力を評価できるわけではないとは思いますが、「漫画精読」が寄与していたと思っています。

「言葉の原風景」のことは昔SSSの掲示板に書いたことがあるのですが、僕の場合、MAGIC TREE HOUSE でネズミの Peanut が Annie の胸ポケットから顔をのぞかせているのが peek や poke の原風景だったり、Emma’s YUCKY BROTHER で Emma が弟を追い払う時の言葉が “get lost” の原体験だったりします。辞書で単語を調べた場合は、この「原風景」や「原体験」が伴わないため、イメージから言葉を思い浮かべるような応用(会話など)ができないのではないでしょうか。

では、今日はこの辺で。

Happy Reading!

まったくその通りだと思います。
原風景・原体験のない文字は空疎で、渇いていて、摘まもうとするとほろほろと崩れてしまう・・・
漫画でも、映画でも、テレビドラマでも、「絵=映像」がついていれば「ことば=音」は
生きてくるようです。

モーリンさんんの、peek や poke の例、Get lost! の例は、段階別読み物ではかなり
あり得ないと思います。 (Get lost! は少しありえるかな。)

Mさん、モーリンさん、ありがとう!

「絵=映像」から始まる 多読から多読的精読への道

独眼龍さんがあるとき(おそらく2、3年前?)、

「それは多読から多読的精読になっていないということですね。」

と言ったことがありました。わたしはそれ以来ずっと考えてきました。
どういう場合に 多読から多読的精読にならないのだろう?

今年の初め以来、そのことにある見当がついたように思っています。

「絵=映像」の吸収が足りない場合ではないか?

(「精読といえば文法分析だろう、したがって、多読に文法の勉強を加えれば
多読的精読に変化するはずだ」と考えるのはほとんど陋習であり、
たとえ陋習とまでは言えなくても、間違いなく短絡的です。
そんな表面的かつ簡単なことならなら2年も考えなかった。
文法による精読なんてものはまったく無力。というより害があります。
その点については「さよなら英文法 多読が育てる英語力」(ちくま学芸文庫)
を参考にしてください。文法を通じた精読では、どんなにがんばっても
あの本で採り上げた英語の先生たちや受験専門家たちの理解
(すなわち無理解)にしかなりません。)

つまり、なんと1年半前にいくつか書いた「いわゆるGRの功罪」という話題に
見事につながっていました。そしてなんとSSS時代の多読仲間の現在にも
つながっているかもしれません・・・

1年半前に書いた記事はおいおい投稿しますが、
絵や映像の吸収が足りないということについては、整理し切れていないので
メモ風に・・・

*GRは絵本ではなくて挿絵本。
→ことばにとってきわめて大事な「世界や状況や場面」を体感しにくい。
*GRは学校英語に近い。
→「生のことば」に対する勘が養われない。
*学校英語をお勉強した人には、分かるところが多すぎる。
→分からないことに耐える癖がつきにくい。
*学校英語の誤解が修正されにくい。
←絵があれば誤解が修正されやすい。
*GRも絵本も「やさしい英語」で書いてあるが、「やさしい」の意味は全く違う。
→GRは学校で英語を勉強した大人向けにやさしく書いてある。
→絵本は英語が母語のこども向けにやさしく書いてある。

ほかにもあるはずですが、ここはメモなので、またいつか追加します。

GRから始めて、そのまま挿絵本に移り、ペーパーバックに手を出すと、
いちばんやさしい、つまりいちばん基本的な、語や、語のつながりについて、
十分な理解と吸収をしないままになってしまう可能性があります。

そこで、たとえば Catherine walked into Wim’s office.  を
「事務所まで歩いて行った」と考えてしまいます。
600万語読んだある人は音をたくさん聞いていて、想像力も豊かなのでしょう、
「into と書いてあるから、『乗り込んだ』んでしょ。」と言いました。
「こんなのが多読的精読」です。

つまりSSS掲示板の時代には絵本の役割が小さかった。
そのために、ペーパーバックを楽しめるようになった人たちの中には
うまく多読的精読に入っていったタイプと、もう一息入れないでいるタイプが
いるのではないかと、しばらく前からわたしは考えています。
(もちろんその間にさまざまな度合いのタイプがありますが。)

*最初のタイプは、想像力が豊かだったり、GRからORTに戻ったり、
絵本を堪能したり、朗読や映画や海外ドラマを多読と並行して
楽しんだために「文字だけではない理解」にまで進んだタイプ。

このタイプはいい加減な人たちで、いわゆる「理解」は不十分でも、
どんどん楽しんでしまうようです。きわめていい加減な場合は、
そもそも「理解」なんていうことはまったく気にしないようです。

*もう一つのタイプは、GR → 挿絵本 → ペーパーバック と進んで、
一見順調なようだけれども、GRの時の英語の理解をそのままペーパー
バックに持ち込んでいる。いわばペーパーバックを強引に学校英語の延長で
理解していているように思われます。

この場合、自分が「正しく理解しているかどうか」を気にし、
さらには試験の点数を気にする傾向があるように思われます。
理解度が気になるので、飛ばし読みができず、結局 たくさんは読めない・・・
また、飛ばし読みができないのでリスニングが不得意、
映画やドラマも分からないところを繰り返し聞いたり、
字幕でたしかめたりするようです。その結果 たくさんは聞けない・・・

とどのつまり、ことばが使われる多様な場面に遭遇することがなく、
なによりも大事な楽しくたくさん吸収することができない。
たくさん読んだように見えて、理解が深まることはなく、多読的精読には
至らないというわけです。のみならず、正しくないといけないと考えがちなので、
話すことも書くこともおびえてしまい、手が出ない。いや、口が出ない・・・

注:もう一度、念のため・・・
二つのタイプに分けたのはいちばん極端な両端を採り上げてみただけ
のことです。両端の間に無数の変化形があります。

**********************************

このメモの結論は以上ですが、どうしても追記しなければいけないことがあります。

後者のタイプは「わたしのことかもしれない!」と思い当たる人には、
「気楽で楽ちんな道」に戻る方法がいくつかあります。

*聞き読み ただし、決して理解を深めるためにという言い訳で、戻ったり、
何度も同じところを聞き読みしないこと! 分からないところは放っておいて、
朗読の速さのまま引っ張られてください!!
*劇薬シャドーイング すでに何百万語も読んでいるのに、聞けない、話せない、
書けない、という場合は、劇薬シャドーイングを試してください。
一気に聞ける、話せる、書けるになる可能性があります。
*字幕なし多観 劇薬シャドーイングよりも続けやすいはずです。
効果のほどはまだよく分かっていません。

「絵=映像」 は多読の 「底=土台」? 

一つ前の記事で「わたしたちは多読の底にたどりついた」と書きました。
底というのはわたしの実感ですが、
(12年かけて、文字から音へ、絵へと、ことばに対する考えが 深まって
きたという気がするので)
普通には底というより土台のほうが分かりやすいかもしれません。

底か土台かはたまた基盤か--それはともかく、言葉は文字である以前に、
音であり、場面であり、気持ちであり、考えであるのですね。

けれども日本では漢語以来 外国語=文字 と思いこんできた。
(それ以外に外国語に触れる機会がなかったので)
最近 文科省では外国語の 音 をこれまでよりも重視しようとしていますが、
どうも不徹底に見えます。音を成立させている場面も気持ちも無視されています。
音声英語! というお題目を無理矢理唱えているだけのように見えます。
ことば全体を捉えた上で音の位置を意識しているわけではないのですね。

わたしが考えることばは氷山のようなものです。

*海面上に出ている部分が 音としてのことば

*海面下に広がっている全体の9割は 気持ち/考え/物語/世界観

*そしてことば全体が浮かんでいる海は 場面/世界/状況

文字はせいぜい氷山の上に降った雪というところ・・・

したがって、ことばを 世界 や 物語 や 場面 や 気持ち や 考え から切り離して
理解しようとしたり、仕組みを探ったりすることは非常に無理があると思われます。
(文法を探る試みがいまだに成果を挙げていないのはそのせいかもしれません。)

この「ことば観」は実に多くのことにつながっています。たとえば
*言葉の獲得を文字だけからはじめることはあり得ない
*「をさなごのやうに」外国語を獲得することが可能だとすれば、
音と絵や映像から始める
(ただし、をさなごではない人が「をさなごのやうに」なるにはさまざまな工夫や
仕掛けを必要とします。それがgraded readersであったり、劇薬シャドーイング
であったりするのですね。)
*文字ばかりの本が「読める」ためには、音と絵や映像をたっぷり体に染みこませて、
文字を見ただけで音や絵や映像が思い浮かぶようになっていることが前提

最後の点をこれからしばらく記事にしようと考えていますが、
一言で方向を書いておくと、graded readers には絵が足りない、ということですね。
お楽しみに!

字幕なし多観について質問がありました・・・

昨日の記事はNPOの講座受講生Bさんが、
10%しかわからなかったけれど、Desperate Housewives にはまった、
という報告でした。きょうは同じ日に受講生Mさんからいただいた質問から・・・

Mさんは

文字なしで映画を観るということはぼーっと見るということですか?

という意味のことを尋ねてくださった!
それで、そうだ、そうだ、とわたしは気がついたのでした!!

*多読は字のない絵本から始める・・・
*tadokuは字幕のない映画やドラマから始める・・・
*どちらも最初は 絵だけ眺めて、ぼやーっと筋が分かればいい・・・
*たくさん眺めたり観たりしているうちに 少しずつ霧が霽れるように
細部まではっきり見えて来る--不思議ですね!

多読とtadokuの平仄が合ってきたと書きましたが、まさにぴったりですね。
Mさんに大きなヒントをもらいました。

たくさん揃えたDVDはぜひ、ぼーっと眺めるところから始めましょう。
それではなかなかおもしろいDVDに当たらないかも知れませんが、
NPOとしては必死でおもしろそうなものを探して、買い集めます!

熟成はやはりあるのだろうか?

2月23日の日曜日に、新宿区四谷図書館で多読講演会がありました。
四谷図書館は開いて愛知県知多市立中央図書館と並んで多読に
とても熱心に取り組んでいます。

四谷図書館の第1回は一昨年の8月でした。その講演会に参加して
くださったSさんはなんと四谷図書館の本だけで多読を続けて、
半年後にはOxford Bookworms Library の Stage 3や4を読んでいた。
ちょうど1年くらい前のことです。

ところがその後いろいろ忙しくなって、今年の1月の四谷図書館
講演会まで、まったく英語の本を読まなかったそうです。
1月の講演会のあとでわたしに、いちばん易しい絵本から
やり直したいと言いました。

それでわたしは(自分では覚えていないのですが)
Louis Sacher の Holes を読んでみたらと、勧めたそうです。
無茶なことを勧めるものですね。今となってはなぜそんな無茶なことを
言い出したのか、まったくわかりませんが、なんとSさんは
5日間で読んでしまって、とても楽しい読書だったと、きのう
知らせてくれました。

約1年間の中断の間にその前6ヶ月間に吸収した英語が熟成したの
でしょうか? まだ判断材料が少ないのでなんとも言えませんが、
少し前には4年半(だったかな?)中断した後で The Last of the Really
Great Whangdoodles というペーパーバックで復活した人もいいます。

ま、これから資料が集まってくれば「熟成」という多読を巡るOne of the
Really Great Possibilities の一つに決着がつくことでしょう。