「第三のスペース」 スタンフォード大学の報告から・・・

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Pocket
  • LINEで送る

一昨日、Facebookで次のような投稿をしました。

Tadoku の良さは最終的に生徒の気持ちの中にある!?
点数では測れないもの、点数から漏れてしまうもの、
そもそも点数では測る気がないもの--その一つが「多読授業は第三のスペース」という感想・・・

こういう感想を拾い上げることができる「先生」は多くはない。とかく点数や評価に頼りがちな「教育」から、一人一人の気持ちを大切にする「支援者・お手伝い・伴走者・先輩・道連れ」へ!

多読に原点があるとすれば、多読支援にも原点があります。
8月6日の支援セミナーは多読・多読支援の原点をたしかめます。

日本語多読便り アメリカ・スタンフォード大学より

すると、Twitter で、リツイートしてくださった方がいて、
そうだった、それが大事なことで、それを言いたかったのだったと、
思い出しました・・・

思い出せてくださったのは@orangistさんです。

「もう一つの自分の居場所ー第三の場所としての存在」である多読授業。多読授業はそういう「場」であるべきだと思うし、私もそういう場づくりをしたいと願いながら多読授業をやっています。「場」であることに意味があるはず。

最初のFacebookへの投稿は多読支援セミナーへ誘う主旨になっていましたが、
スタンフォード大学の多読授業に心を動かされたのは、「第三のスペース」
という表現でした。@orangistさんのツイートとともに考えてみます。

多読の良さはいろいろありますが(そして悪いところもいろいろありますが)、
一つには多読授業は独特の「場」を作ります。
場が話題になるというところに多読支援の特異さが表れていると言えます。

良い意味では多読授業は学生が気持ちよく自分を出せる場になります。
スタンフォード大学のTさんの報告にあるように、先生も、点数も、
まわりの人も気にせずに好きな読書ができます。

悪い意味では学生の地がでる場になります。
先生や試験の統制や友だちと合わせなければいけないという圧力がないので、
特に中学1、2年生の場合などは、読書の場にならず、ただ騒がしくなることも
あります。

多読支援が普及し始めた最初期から、多読授業の場に訪れる
「静謐な時間」のことが、先生たちの間でしばしば話題になりました。
生徒や学生に読書相談の声をかけることさえ憚られる静かな時間・・・

それは緊張した時間とも言えます。先生は教室を覆う読書の魔法を
破らないように行動しなければならないからです。
緊張と弛緩が同時に存在して、その均衡が破れるまでの束の間味わえる、
至福の時間・・・

それを味わった、あるいは目撃した先生が興奮して話題にしたのも
むべなるかな、という魔法にかかったような時間です。

その間、支援される側の生徒もまた、緊張と弛緩の両方を同時に
味わっていたに違いありません。そして授業が終わると、
しばし深い昼寝を味わったような、あるいは適度な温度のシャワーを
浴びたような、すっきりした気持ちになったのではないかと
わたしは見ていました。

電気通信大学の授業では「1週間でいちばん気持ちの落ち着く時間です」
といった感想が毎年聞かれました。同じ魔法の時間が太平洋を隔てた
カリフォルニアでも起きていて、英語ではない日本語の授業でも
起きている--なんだか時空を超えてたまゆらの極楽が出現したような
気さえしてきました。

スタンフォード大学のTさん、報告をありがとうございました。
@orangistさん、ツイートを引用させてくださって、ありがとうございました。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Pocket
  • LINEで送る