多読

「字幕なし多観」へ・・・ katobushiさんからメール!

前回の記事には今朝sloさんからメッセージが届きました。
わたしは「sloさんの定義によれば」と書きましたが、あれは定義ではないと・・・
「イメージ」だそうです。たしかに定義は固すぎましたね。

で、午後になってkatobushiさんからメールが届きました。
これもたしかにもっともなので、引用の許可をもらいました。

さかい先生

こんにちは。
先生のブログの最新記事がとてもとても気になって。。。

「字幕なし多観」の話をするときに、
「レベル」という言葉を使ってしまうのはまずくないですか?

上の同じ引用の中でわたしは
「気楽に見始めて、好みや自分のレベルに合わないと感じたらすぐに投げること」
と書いたのですが、そこがkatobushiさんは心配だった。

こういう「心配」が出てきて、メールをもらえるというのは、二重にうれしいです。
ひとつは「あ、ぼくより分かっている人がいる」といううれしさ。
もうひとつは、すぐにそういう懸念をメールでもらえること。
(二つ目はわかりにくいですか? ま、いいとしましょう。)

僕が多観を始めた時、「ORTのような」「簡単なものから」
という「レベル」を意識した質問をたくさんして、
しかもその後、ついにはオンライン大学を受講するにまで至った
「成功体験」として、記録に残ってしまっているというのが
なんともなんとも、申し訳なく思う今日このごろなのですが。。。

この「申し訳なく思う」というところもすごいです。
(わかりにくいですか? ま、いいとしましょう。)

先生がブログで書かれていることの真意を、よくよく分かっているつもりです。
でも、伝わらないんじゃないかなぁ。。。
誤解を招かないかなぁ。。。と、とても心配です。

「レベルを気にしなくていい」という言い方をしたとたんに、「レベルの存在」を
当然としてしまう危険が出てくる! その通りですね。

釈迦の耳に説法でも、書かずにはいられないので書きます。

「多読的スピーキング」と「字幕なし多観」は状況が似ていると思います。
別の言い方をすれば、「多読」とはずいぶん状況が違うと思うのです。

「正しく喋らなければ伝わらない」故に「間違えてはいけない」
「聴き取れなければわからない」故に「聴き逃してはいけない」

こういう「心の壁」から開放されないことには話にならない。。。
読むことに抵抗のないひとに、「やさしい本からはじめましょう」というのとは
まったく状況が違うと思うのです。

(読むことに抵抗のない人はほとんどいないので、状況は同じだと思いますが、
ここではそれほど大事な意見の違いではないです。)

「自分のレベルに合わなかったら投げる」ということは、
「自分のレベルに合うものがある」ということを暗示し、
その時、殆どの人にとって、「レベル」とは、
「どれだけ(音そのものから)台詞を聴き取れるか」
ということの尺度になってしまうだろう、と。。。

まったくその通りですね。

ぴ~ママさんの卓見、何人かのみなさんの劇薬シャドーイング報告、カエデさんの報告、
katobushiさんの今回の意見をきっかけにして、多読は大きく変わろうとしているかのようです。

時あたかも「多読」は普及の度を加速させ、それにつれてさまざまな多読が
出てきました。(きょう、調布の佐藤さんからそういう主旨のメールをいただきました。
近く引用します。)

いわばこういうタイミングでkatobushiさんから「レベル」という考え方そのものに
疑問が提出された・・・ (そういうことですよね、katobushiさん)
そうした「きっかけ」はどれも一つの方向を指し示していると、わたしには思われます。

講座の帰りにOKさんに「字幕なし多観」について聞かれた時、
僕はこんなふうにいいました。

何を観ても台詞なんてわかりっこない。
それでも面白いものはいくらでもある!
だから、この俳優さんが好き!とか、このロケーションが好き!とか
とにかく観たい!と思うものを観ればいい。
ただし、いきなりそうすることに抵抗があるなら、
あくまで「こころのリハビリ」として、
子供向けアニメとか、アクションものとか
視覚で理解しやすいものからスタートして、
「聴き取れないことに慣れてきたら」
(←絶対に、聴き取れるようになったら、じゃない!!)、
観たいものを観ればいい。

僕は、子供向けアニメをある程度聴き取ることが出来ました。
それも、3割わかれば全部分かった気になれるような、多読的な人間でした。
でも、子供向けアニメを聞き取れない人は?
3割聴き取れても、3割「しか」と考える人は?
カエデさんは上手くいったようですが、
挫折させてしまった人も沢山いると思うのです。。。

100時間かけて変わったのは、「耳」じゃなくて「こころ」だと、
自分の中に英語が溜まっているところまでは、
「こころ」が変われば聴こえるようになると、
そう言ってあげたほうが、背中が押せるんじゃないかと思ったりしています。
(そこから先は、先生の言う、
チャーチルなんたら、うなぎの臭いで飯を食う、なんでしょう??)

はは! その通り。でもね、tadokuの奇跡は 「臭いだけで味わえる」こと
なのですね。「楽しんだのは幻か?」と思いながら楽しみ続けると、
実質が伴ってしまうのですね。

最後にひとつ、報告を。
先日、アメリカ映画だと思って観始めたものが、フランス映画でした。
でも、ま、いっか、と最後まで観て、
途中3回くらいケタケタ笑って、2回くらいうるうるして、
最後はいい映画だったなぁと、いちょまえに感動していました。
「最強のふたり」という映画です。
もちろん、フランス語なんて全くわかりません。
katobushiさんは特別だ、なのか、
本来言葉がわからないなんてその程度のことだ、なのか。。。

ながながと失礼しました。

katobushi

ははは! katobushiさんが特別だとはわたしは思っていないのです。
思っていたら、他の人に道を示すことは意味がない。
でも、普通は「katobushiさんは多読講座を受けているから」と思われるのでは
ないかということで、「字幕なし多観」を大きな声で言わなかったわけです。
そこへカエデさんの報告がありました。いわばカナダ在住でも、受講生でも
ない「普通の人の報告」でした。((twitterで、「多読をしている人は当然
字幕なしで観ていると思っていたという感想もありましたが、
この方が「普通の人」かどうかはわかりません。)

途中にもいっぱいながながとしたコメントになりました。
これは長い時間をかけて説明しますが、一言で言えば
多読・tadokuは少しずつ表面的な事象を離れて、土台を確かめているのだと思います。
今回の「レベル」のこともそうです。語数を忘れてやさしい絵本をたくさん、という
訴えも土台へ帰ろうという趣旨です。「わかることより楽しむこと」というのも
同じです。けれどもこれは延々と続くのでおいおい・・・

土台は確かめずとも最初から分かっていたはずなのです。
でも告白すれば、わたしはずっとおずおずしていました。
土台をはっきり意識して、きちんと口にして、実行に踏み切るには
勇気が必要だった。その勇気をみなさんがくれたのです。

文科省の計画に「多読」の文字が!

文科省の文書に 多読 の文字が入った!

最初見たときは気がつきませんでした。3ページ目右コラム上から6行目です。
ははは! ついに文科省も無視できなくなったのでありますね。
「速読」と並んでいるあたり、まだまだ分かっちゃいませんが
(永久に分からないだろうけれど)、
こうやって足がかりができていくのでしょう。
小学校へ、保育園へ、大学へ、入って行きそうな気配。

多読が外国語獲得の当然の選択肢となるまであと半道の半道かな?
この文科省の文書を知らせてくれた OreRyuTSJさんのブログに感謝。
OreRyuTSJさんのブログに応援クリックを!

 

離陸の図解のために 朝令暮改--昨日の晩の今日の朝でもう?!

たとえというのは気をつけなきゃいけませんね。

「離陸」というのは多読にぴったりのたとえだと思うんですが、
(その点は変更の必要はない。なにしろ「独り立ち」が目的だから)
離陸する飛行機というのはいわば一直線に昇っていきますが、
多読でみなさんが学校英語から自由になる経路は決して一つではない!

それこそぴ~ママさんやakoさんのように、多読の途中で絵本に引っかかって
ずーっと絵本を読む人、児童書に引っかかって当初のペーパーバックを楽しむ
という目的を忘れたYYYさん、本は読まずに俳優の追っかけに英語を使っている
YYYさん、ロマンス本にはまったYYYさん(多数)、XXXさん(一人)、
BLにはまったYYYさん(複数)、翻訳に向かっているYYYさん(複数)などなど、
「完全に離陸」したあとはいろいろ楽しみ方があるわけです。

従って、離陸を図解するとしても、各段階を・・・

1冊の語数やラベルの色 で決めつけてはいけない!

そんなものは本棚から本を取り出すまでの目安に過ぎない!

逆に言うと、語数も色ラベルも気にしないで好きなものを好きなように楽しむことが
本格的離陸ですね。楽しめないものを一言「いまのわたしには合わない!」
と切り捨てる自由さえ手にする!

反省とともに、語数や色ラベルに囚われない図解を考えることにします。

離陸の図解のために

最近こういう一文のあるメールをもらいました。

さかぺんに報告出来る事は、Tadokuから完全に離陸して、大空を飛び回っているって事かな!

これ、実はわたしが考える「完全な離陸」のたとえと同じなのです。
最初は飛行場の滑走路のように、ある程度レールの敷かれたコースを、
Stage 1 から Stage 2 、Stage 3、Stage 4 というように助走します。

そのうちスピードもスタミナもついてきて、離陸態勢に入る。
前輪、後輪と滑走路を離れて、機体はふわっと air-borne になる。
これが「不完全な離陸」ですね。まだ地面を離れただけ、空の旅には先がある!

この段階の離陸を多読でいうと、絵本から挿絵入り本に移るあたり、
NPOの色ラベルでいうと黄色、1冊あたりの総語数でいうと5000語から1万語くらい。
挿絵は間遠になり、挿絵だけ見たのでは話はさっぱりわかりません。

で、飛行機はふわっと浮くとすぐに車輪をしまいます。黄色ラベルの厚い本、
1万語くらいの本を気持ちよく読めるようになるのがこのあたりでしょうか。

でも、まだ飛行機は急上昇を続けていて、わたしなどはまだ息を詰めて、
この高さなら墜落してもかなりの確率で助かるのではないか? などと
気休めを思いつつ、街の俯瞰図を楽しんでいるあたり。

多読支援する人にとってもこのあたりは伸びについていちばん気を遣う
ところですね。無理に機首を上げると失速します。それに黄色ラベルになると、
それ以上上昇しなくても十分おもしろい本があるので、
ゆっくり時間をかけたいところでもあります。

そうやって息を詰めていたのが、少し楽になるのは、シートベルト着用の
サインが消えた時。トイレに立つ人、頭上の荷物置きから何か取り出す人、
なんとなくざわざわしてきて、客室乗務員が飲み物の用意をする音も
聞こえてきます。さあて、ここからの数時間をどうすごそうかと、
上昇よりも楽しみの方向へ気持ちが向き始める。
(絵本にはまってずっと絵本を楽しむ人もいるのだから、ラベルの色なんて
ほとんど意味がありませんが、字ばかりの本でいうと、そうですね、
緑ラベルに入ったあたりでしょうか。)

けれども最初のメールの人がいみじくも書いた「大空を飛び回る」のは
もう少し先かな? それは水平飛行に移って巡航速度で進み始めたあたり。
それが完全な離陸ですね。青いラベルまたは1冊の語数にして
3万語から5万語くらいの本を気持ちよく読めるようになったら、
このあたりですね。

1万メートルの上空からはどこへでも行けます。近い外国、遠い外国、
遠い国内もおもしろそう! 外国語の本を選ぶにしても、もう語数は
どうでもいい。好きな作家を見つけに空を飛び回ります。
飛び回るうちに今まで好きになるとは夢にも思わなかったものが
好きになるかもしれない!

追記 ついでに次の記事も必ず見てください。短いです。

それは絵本作家かもしれないし、何かの専門分野かもしれないし、
外国の友だちかもしれないし、ブログを外国語で書くことかもしれない。
Skypeで新しいことを始めるかもしれない・・・

大事なヒントをありがとう、ぴ~ママさん!

いま多読について書いたことは聞く、話す、書くについても言えます。
要するにすべて、簡単なところからはじめて、少しずつ複雑な方へ・・・
支えありから支えなしへ・・・

いわゆる4技能は読了語数や色ラベルと同じで、目安にすぎませんが、
聞く、話す、書くについても、具体的に離陸を図解できたらと考えています。