みんなの歌 ベートーベンのピアノ協奏曲「皇帝」--をさなごのやうに

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最初に断っておきますが、わたしは音楽はまったくの素人です。
いや、それどころか音痴です。(これには美術の時間と同じくらい
哀しい逸話がありますが、それには触れません。)
したがって(?)、曲の解釈だとかなんだとか、そういうことは
一切この記事でも触れません。

それなのに、そんな音痴で、「皇帝」のメロディーを繰り返してみろと
言われたらまったく繰り返せない、「曲想」なんていうのも
どこで繰り返されているか、ほとんどわからないくらい音楽に冥いのに
Rosalia Gomez Lasheras という若い人の演奏 に魅入られてしまって、
昨年の10月以来たぶん100回はYouTubeのクリップを観ています。

なにが起きたのか、考え直してみますね。
そしてもしみなさんがご覧になって、演奏を聴いて、よかったと思ったら、
どこかで、なんらかの方法で語り合いたいと思うのです。

ちょうど多読の集まりのブックトークのようです。
100回も観ていると、絵本を1ページ1ページ繰りながら、ここがね、
あそこがね、と40分の演奏を2、3分おきに語れるくらい詳しくなりました。

(音楽的に、ではないですよ。でも、海外ドラマを観る回数が急に減ってしまった!
原稿書きやブログやSNSの書き込みの合間にドラマを観ていたのが、つい
この演奏を観てしまいます。)

ベートーベンという人はつくづくすごい人だと思います。
海外ドラマをわくわくしながら観るよりも、「皇帝」の音の展開の方が
わくわくしてしまうので、ついドラマを観ないのです。
どう考えてもなぜこんなことが可能なのか、
音楽音痴のわたしにはまったく想像がつきません。

そしてもう一つ、Rosalia Gomez Lasherasさんの演奏の様子が
この4ヶ月間、何度観ても飽きないのです。
なんとも楽しそうなのです! まるでこどもがお気に入りのおもちゃで
だれに邪魔されることもなく遊んでいるよう!!

時には同じスペインの画家(ギリシャ出身だそうですが)エル・グレコの
描くキリストを思わせる表情になることもありますが、
自分の音に耳を澄ませているのか、座頭市のように見えたり、
いたずらを見つかるまいと回りを窺うこどもか泥棒猫のように見えることも。
回りではなく、実はオーケストラの方に目をやるのですが、
それがまた、一緒に遊ぶ友だちと遊びのタイミングを合わせようと
しているこどものように真剣で、楽しそうなのです。

(開始から1分40秒あたり。ほかにもたくさん!)

何度も観て聴くうちにわかってきたのですが、ピアノ協奏曲では
ピアノの方がオーケストラに対して「伴奏」に回ることもあるようですね。
そういう時 Rosalia さんはたいていオーケストラの方を見ています。
いかにも一緒に音楽を作っているのですね。その心映えも感心します。
ほかの演奏家もオーケストラの方を窺うことはあることなのだろうか?

そしてなんといっても、Rosaliaさんの楽しそうな様子がなんとも言えません。
演奏家は楽器をこんなに楽しそうに、というよりうれしそうに弾くものなんだろうか?
音楽会も、YouTubeのクリップもクラシックのものはそんなに
観ていないのでわかりませんが、この人は弾きながら何度も微笑む、笑う!

特に、全身で鍵を叩くときはたいてい笑っています。
うれしく堪らないという表情です。
33分30秒の表情はこれこそ「音楽」というように
音と、ピアノと、オーケストラと、戯れます。

40分の演奏なのに、「ここはほかの人はどんな風に弾いているんだろう?」と
「皇帝」のほかの人の演奏を参照しているうちに1時間は軽く経っています。
Rosaliaさんの演奏はほかの人の演奏にくらべると、「正確」ではないかも
しれません。(もちろんそんなことはわたしにはわかりませんが、印象です。)
けれども、ぴっと背筋を伸ばして、ベートーベンの楽譜を再現しようと
真剣な演奏よりも、わたしは音楽と戯れるこの人の演奏に飽きることが
ないようなのです・・・

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・・・もちろんここ4ヶ月は、という話で、この先ずっと毎日のように
この演奏を見続けるかどうか、わかりません。

去年の10月になぜ「皇帝」を聞き始めたかというと、
その1年前に高校の1年先輩でわたしの生き方にとても大きな影響の
あった人が亡くなったのです。

ベートーベンのピアノ協奏曲第5番はその人の家に訪ねていった時に
初めて聞きました。60年近く前です。それなのにそのときその人と
どういう会話があったかも覚えているというわたしとしては珍しい曲です。

わたしが74年間に出会った数知れない人の中で、天才だと思った人が
二人います。どちらも高校の時で、この二人のこと、この二人の
言ったこと、この二人の目はいつもわたしから離れたことがありません。

(もう一人は多読村の絵師です。)

この二人を高校の時に「特別な存在だ」とわたしが考えたのは
我ながらとても鋭かった。その頃の勘が正しかったことは、
この二人以上に、まるでベートーベンのように、なぜそんな風に
頭が回るのかわからないという人には結局会っていないことが
証明している(?)と思います。

二人はもちろん世間的には無名です。けれども無名なことがわたしの
生き方をすっかり変えてしまいました。それまで自分しか見えていな
かったと思いますが、二人を見て自分以外の人間を初めて意識したのかも
しれません。

天才と世間の評価はまったく関係ないと見えたことで、わたしにとって
世の中は水平になりました。えらく見える人がえらくないし、
えらくないと見える人がえらい--
(Harry Bosch のことばを借りれば Everybody counts or nobody counts.)
言い換えれば、どの人もどの人も、その人だけを見なければいけないと
思うように自然になりました。

(もちろん外側だけで判断してしまうこともしばしばですが)

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一昨年の10月から昨年の3月の間にわたしは大切な人を三人
立て続けに失いました。そのためにこの1年少しの間はとても
気持ちが揺れやすくて、気分のうねりが大きかったようです。

この文章はそういうわけでしばらくの間書きたくて書けなかったものです。
これで区切りがつくとは思えませんが、(3月末までに1周忌があと
二つある!)Rosaliaさんの若さに惹かれるのは自分の歳、
そして一昨年の10月からの気持ちの揺れがあるためかもしれません。

今年の多読祭りの受付が始まりましたが、三つ目の1周忌があるので参加できません。
遠くからみなさんが「若さ」を堪能なさるように祈ることにします。

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