シャドーイングという身体的経験について をさなごのやうに・・・

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シャドーイングは時々単なる「ドリル、トレーニング、機械的作業、お勉強」と
捉えられることがあります。

無理もありません。けれども、わたしはそうじゃないと昔から主張してきました。
お母さんのお腹の中で、赤ちゃんは回りの近しい人の声をシャドーイングしているにちがいないとさえ思うくらいです。

心地よい声、生きていくのに大事な声、好奇心を刺激する声を
自分でも繰り返すというのはかなり根源的な活動ではあるまいかとわたしは
思います。

最近一口大研究のためにやさしい絵本(1ページに1語から3語くらいの絵本)を
たくさん朗読してみて、その思いはさらに強くなりました。いや、ほとんど確信ですね。

おっと、それはまた実例を見せながら記事にするとして、
赤ちゃんが心を揺さぶられるように、おとなもことばに心を揺さぶられ、
体を揺さぶられることがあるようだという引用です。

ああ、って、おもったよ。
まえに、もう何年も前だけれど、映画のスピードを、しゃどーいんぐしながら、みたことがあって、たぶん、かぎりなくはじめての字幕なし体験だったと、おもうのだけど、それがものすごく楽しくて、そのまま、スピードの、てんぽよい、やりとりを、体にしみこませるようにして、おわりまで、みたことがあった。ものすごい、はらはら、ドキドキ、しながら。からだなんて、いっしょに、みぎに、ひだりに、ゆれながら、スピードの、ことばの、てんぽを、体で、コピーするみたいに、ね、おわりまで、さ。で、そのちょくごに、たしか、シドニーシェルだんの、なんか、ダイヤモンド掘る話みたいの、読んだんだ。結構長いやつだった気がする。ぶあつい、本。だけど、直前に、みた、スピードの、せりふや、そのてんぽが、しっかり、からだのなかに、まだ、のこってるのが、わかったよ。本は、読まなくっていいんだ!、って、そのとき、おもったの。からだをゆらしながら、映画で、からだに写し取ったままのテンポで、目に飛び込んでくる、耳にしたのと同じような、大きな、かたまりの、せりふや、ことばを、そのまま、のみこむみたいに、ガブガブと、飲み込んでいく。ものすごく、きもちよくって、たのしかった。けっこう、あっというまに、よんだように、記憶してるけど、もう十年くらいはまえのことだから、あまり、たしかな、記憶では、ない。でも、まえから、せんせい、いってたでしょ、かたまりで、よむんだよ、ってことは。一口大のはなしを、ききながら、いっつもそのこと、おもいだしてました。きょうの、ブログを、みたら、ちょっと、メールを、したくなりました。多読と出会えたことで、いろいろ、おもしろいことを、日々、味わわせてもらってる。

こどもと同じように、体でことばの音を受け止める、体から出す!
これはまさにわたしがシャドーイング推進、一口大研究でめざしている方向ですね。

いや、方向が見えているだけで、まだわかっていないことが山ほどあるのですけどね。

なお、このYYYさんがこうしたシャドーイングの創始者ではありません。
SSSの掲示板時代に勇名を馳せた「はまこ」さんがわたしの知る限り
朗読を聞きながら体を揺さぶられた最初の人です。
大阪でオフ会の時、はまこさんは一人でシャドーイングを始めて、
みんなの座っている席の脇に立って、踊るがごとく、酔うがごとく、体を
揺すっていたのでした・・・ なつかしい!

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