Now stopping at Tokyo で始まった洗い流しに関わるアフォリズム集
* Now stopping at Tokyo の問題は「正しい表現は何か?」ではない。
* 洗い流すことで学校英語は実際使われる英語と別物であることが浮かび上がる。
* 学校英語という汚れはしつこい。何年経っても別物だということがわからないくらい・・・
* 外国語をしっかり使える人は「単なる道具」とは考えていないに違いない。
* 「外国語は単なる道具だ」という言い方には sour grapes の響きがある。
手の届かないところにある葡萄を「あれは酸っぱいに決まっている」というような・・・
* ことばはたしかに道具だ。しかし店で買ってきて終わりという道具ではない。
使って、磨いて、育てる道具だ。
* ことばは間違うことで磨かれる。
* こどもは何であれ間違わずに獲得することが出来る。
* おとなは間違うことでしか獲得できない。
* 洗い流しは間違いの確認ではない。さっぱりきれいにして吸収するチャンス!
半分は本気で箴言集のつもり
高校の時、現代国語の教科書に「ラ・ロシュフコーの箴言」というのが
入っていて、これがおもしろかったんですよ。高校の現代国語の教科書で
覚えているのはそれだけですね。
あれを真似したいもんだ!