Unlearn の大切さ、むずかしさ -- 「常識」を疑うこと

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きのうの記事の続きです。
岡山県立図書館に向かう新幹線の中で書いています。

きのうNPO多言語多読の講座卒業生と話していて、
おとなでも頭を使わずに耳と口を直結すると外国語らしい音を出すのは
簡単だというエピソードを思い出したのです。
くわしいことは「おとながこどもに返るとき」の記事 を見てください。

この記事の「考えるな、感じろ!」という無茶な要求について
考え始めて、あらためて unlearn の大切さ、切なさを念うのです・・・

まったくなんということでありましょうか。
日本では本気で何かを学ぼうと考えたら、学校や大学で「学んだ」ことを
投げ捨てることから始めなければならない。

そこまで強く考えているのはわたしくらいのもので、
1000人いたら999人は、
「いや、少しくらいいいことはあったはずだ。
だから学校教育もまったく無駄ではない」
と言うでしょう。

わたしは、
「その少量のいいことを学ぶのにかけた膨大な時間を考えると、
学校教育は本当に無駄としか言いようがない」
と言います。

しかも長い時間をかけていっぱいくだらないことを学ぶので
少量のいいことつまり砂金は大量の砂にまみれて、見分けられない!
もっと致命的なことに、学校・大学は自分の頭で考えることを
禁止している・・・

話はいくらでもくわしく長くなるので、端的に「暗記は必要」
という常識に絞ります。つい最近、若くて元気で生徒思いの、
いま見ることのできる学校の先生の中で、いちばん期待でき
そうな先生が何人も生徒に暗記をさせているのを知りました。

(いや暗記させていない先生を見たことがないかも?)

暗記は大事だという常識はどうしてこれほど支配力が強いのでしょう?
「上が考え、下はひたすら従う」という伝統の強さではないでしょうか。
トップの人間の命令を忠実に実行できるボトムの人間が大事で、
ボトムの人間が自分で考え、勝手に動き出したらとんでもないことになる・・・

「プロジェクトX」ですね--あれは一つのことを追求する美談でも
あるけれど、他人の設定したプロジェクトを必死で実現する
働きアリたちの物語でもある。

そうした「日本の傾向」はそこら中に顕れていますね。
部活の肥大化、オリンピック狂騒曲、学校のブラック企業化、
組み体操の過激化、あらゆる企業団体の経費節約、
メディアの電通頼み、世の中全般の「右へ倣え、寄らば大樹の陰」傾向・・・

日本という張りぼて大樹はいまわたしたちの目の前でどっと
倒れつつある。

多読をやっている人たちは、それだけでもう変人だとわたしが言うと、
みなさんの答えは決まったように「さかいさんに言われたくない」と。
いやいやみなさん、世の中の常識に見事に逆らっている人たちです。
多読ももちろんですが、わたしがエスカレーターに乗るたびに(!)
思い出すある多読仲間がいます。

その人はエスカレーターの「通路側」にどんと立って、こう言い放った。

「エスカレーターで歩くのは危ないんですからね、
どいてくれと言われてもどきません。」

実に見上げた反骨ぶりではありませんか!
(わたしはエスカレーターを歩く方ですけど。)
これから世の中の常識に逆らって、どれだけのことを提案できるか、
それがわたしの楽しみです。