当然のことかもしれませんが、あまりによく似ているので、確認するたびに驚きます。
名古屋経済大学の横山さんが寄せてくれた報告です。
中でもNPO多言語多読の事務局がみんなうれしく思ったのは先生の変化です。
横山さんは、多読授業をやってみて『感激』し、
また『嬉しい驚きが沢山ある』とおっしゃっています。
この点を横山さんの報告では「教師の気づき」と題してくわしく書いています。
「うれしい驚き」が生徒だけでなく先生にもたくさんあること--
これが多読のいちばんすばらしいところであり、
多読支援の醍醐味と言えるのではないかと思います。
以下は多読・多読支援から普通の授業を見直して、ちょっとした苦言を・・・
従来の授業では「うれしい驚き」など皆無ですね。
そんなものはだれも期待しません。授業はそんな驚きなどないのが当たり前。
(文科省やベネッセや教科書の予定通りに、きっちり進めば万々歳)
生徒が喜び、先生が感激する授業? なんのこと? というところです。
多読・多読支援が「うまく」行っている時はすぐに分かります。
たとえば、多読がうまく行っている生徒は横山さんの報告にあるように・・・
授業外で日本語の本を読むようになり、「今はこれを読んでいます」と、
鞄から嬉しそうに日本語の小説やマンガなどを出して見せてくれる
そして授業中は・・・
“学生が黙々と本を読んでいる姿”、“クラス全員に向けて話す『発表』で
立候補が絶えなかったということ”、“これまで理解はしていても使え
なかった言葉や文法が、レポートや話し合いを通じて使えるようになった”
どれも生徒たちが自分から読み、自分から発表し、自分からことばや文法を
獲得している姿ですね。うまく行っている多読授業では、生徒は受け身じゃない!
さて、ここから世の中の授業批判ですが、生徒がアクティブに学ぼうとすること、
それが本当は「アクティブ・ラーニング」ですが、昨今の騒ぎの中では、
まるで「アクティビティ・ラーニング」のように誤解されていて、
先生が授業を支配して、生徒に無理やりアクティビティをやらせる授業が注目を
集めています。
学ぶなんていうことは、大昔から、学校がないころから、
主体的に学ぼうとする以外に起こりえないのに、
いまの大騒ぎはなんという浅はかな上滑りでしょうか。
多読がうまく行っている先生もすぐに分かります。
授業で生徒が目を輝かせたことを、ご自分も目を輝かせて語ってくれます。
「こんな生徒がいました。英語に不得意感を持っている生徒で、その子が・・・」
黙っていられないのです。
普通の授業、普通の見方しかできない人たちが多読・多読支援を
新興宗教のようだ、という意味はよくわかります。
日本語でも、英語でも、多読でも、多読支援でも、
「やってみなけりゃわからない」ことだらけなのです。
でも、Isn’t that true with a lot of things in the world and in our life?
頭だけで分かることだけ、数字でわかることだけしか見えない人たちは
おそらく心を失っているのでしょう。驚く心を・・・
横山さん、ありがとうございました。
これからも多読・多読支援は大きな喜びの源であり続けるでしょう。
なぜかというと、これからもずっと課題があり続けるからです。
一人一人の顔を見ながら支援していくことは、一人一人について
課題を乗り越えていかなければならないですからね。
多読支援もまた、人生同様、果てしない旅なのでしょう。
横山さんも私たちと一緒に、Happy journey!