こういうやり方は少々ずるいなと、気がつきました。
モーリンさんにせよ、この「ある人」にせよ、わたしは自分の言いたいことを
代弁してくれるメールやメッセージを引用して、北風を吹かせている。
でもね、こういう形だとわたしの毒はたしかに薄くなるし、
第一、わたし一人の感じ方や考え方ではないことになるので、
毒を受け入れやすくなるかもしれない。
そういうわけで、みなさん、この際、みなさんが学校の先生に対して
持っている気持ちをわたしに知らせてくれませんか?
多読もNPOもTadokuもみなさんが育てたのだから、
わたしの毒を育てたのもみなさん・・・!
酒井先生、おはようございます。「太陽と北風」最新のブログを読みました。
モーリンさんが書かれていること、頷きました。そうだと思います。
自分が分からない未知のものが多読なのでしょう、その先生方には。そして、私が感じたことがあります。それは、ちょっとこの考えは過激なので、
あまり言ってよいことではないかも知れません。けれど、書きます。
生徒が英語を話せるようになる、ということが、本当のゴールになっていない
のではないか?という疑問。つまり、自分のやり方に生徒をあてはめたいと
思う場合。(すべての先生がそうだとは思いませんが、英語に熱心な優秀な
先生であるほど、そういう考えを知らずと持っているのはないかと思います。
それはダメなことではないし、熱意をもっていると思いますが、なんというか、
他の可能性を遮断するような開かれていない感じが生徒の可能性を奪って
しまわないかと思うのです。)そして、英語ができない生徒がいたとしたら、
どこかで、その要因を生徒の基礎学力に求めていたり、性格に求めることで、
自身の教授法のあり方を疑わないということもあるのではないかと思いました。
そうなのです! 英語の先生は学校英語の優等生なので、とても複雑なのです。
いわゆる ambivalent つまり二つの見方に右手と左手を引っ張られて、
どうすることもできない存在--ただしこれは自分を冷静に見詰めることのできる
先生の場合です。
ほとんどの先生は外に向かっては「わたし英語できます!」という面を見せて、
内なる不安は見ないようにしているのですね。「わたし英語できます」なので、
当然いまやっている授業を根本的に見直すなんてできるはずがない。
実は私は英語を教えていたことがあるので、かつての自分を振り返りながら、
反省の意味もこめて書いています。どうしたって、できないな、
成績があがらないなと思ったと時、あらたな視点が必要でした。
私は教えることをやめたけれど、その新たな視点を求めて多読に行き
ついたのもあります。さらに私の個人的な見解では、教えるということ
そのものの先生自身のスタンスにも関係あるのではないかと思います。
保守的であることで、土台を強固なものとして守ることは効果があります。
けれど、自分の限界で生徒の成長をとどめてしまいます。
そういう先生じゃない先生なら、きっと北風を受け入れるのじゃないかと
思います。酒井先生にメッセージしたくてうずうずしていましたが、
もーりんさんのコメントを読み、メッセージしてしまいました。
酒井先生、執筆がんばってください!
それと、インフルエンザなどに気を付けてください!
「自分の限界で生徒の成長をとどめてしまう」と考える先生はきわめて
少ないです。ひじょーーーーに少ない・・・
ほとんどの先生は「自分のところまでくればたいしたもんだけど、
きみらには無理だろうな」という態度であり、考え方です。
あああ、ここからは毒がきつくなるので、今晩はこのへんで。
みなさんの後押しがあればもうちょっと毒を吐いてもいいかな!?
執筆がんばってますが、最初考えた通りの刺激的かつ実際的、具体的な
本にするのは相当大変だと気がついて、少々へこんでいます。
でもね、大変なことでなきゃやる意味はないので、がんばります。
応援ありがとう!