ことばは文字ではない--当たり前のようにわたしは思うのですが、
世の中はまだまだとてもそんな時代ではないのですね。
第4回図書館多読シンポジウムは充実して大成功だったと思われますが、
わたしはmangaが図書館関係者にまったく受け入れられていないことに
悲しい衝撃を受けました・・・
図書館多読シンポジウムもシャドーイング特別セミナーも、
報告が遅れていますが、もう少しお待ちください!
報告を待てずに文字に対する宣戦布告が先になりました。
要するにみなさん(と、まとめてはいけないかな?)、
少なくとも大多数はmangaなどとんでもない、せいぜい手塚治虫、
学習漫画までだということのようでした。
大上段から批判の刃を振り下ろすなら、
「みなさん」ことばを文字としか捉えていないのですね。
「をさなごのやうに」の旗印の下では、ことばは文字ではありません。
たくさんの人の外国語獲得を見てきましたが、
おそろしいほどの早さで獲得していく場合は、圧倒的に絵か音または
その両方がついていますね。
(逆に文字だけに頼る人は何十年かかっても自分のことばにはならない!)
きょうは怒りのあまりメモだけになりますが、
*いままでの「言語観」(程度の差こそあれ「ことばは文字である」と
考える捉え方)では、外国でmangaやanimeやドラマを通して日本語を
獲得する場合を説明できない。
*mangaは1冊1冊が高いのでほかの本を買った方がいい、という意見は
よく聞く。けれども、mangaは借りる人も多いし、繰り返し読むもので、
しかもその効果は非常に高いので、高くはない。むしろ安いはず。
*ことばは文字ではなく、音である。しかも音はことばの「顕れ」であって、
音を支えるのは隠れている気持ち・考え、場面、物語、世界であると考えると
上の「例外的な場合」を説明できる可能性がある。
*図書館関係者には「多読は読書です」と説明してきた。
それは間違いないけれど、「読書」そのものの理解がたとえばわたしとは
違うのではないか? 読書は文字を追って本の最後までたどり着くこと
ではない。本を読んで、その世界と物語を頭の中で再現することではないか?
*さらに言うなら、ほとんどの人は「読む」ことを読解の試験で調べることが
できると考えているのではないか? そうではなくて、わたしたちは
「読解」なんかよりはるかに高度なことをしているのではないか?
つまり、文字を追って論理的なつながりを理解したり、感情的な色合いを
理解するだけではなくて(そこまでが読解)もっと大きな、豊かな、深い
ことをやっているのではないか?
(よく映画を観て、原作と「イメージ」が違った、と言うでしょう。
実はわたしたちは、文字を通して「イメージ」を作り上げるのですね。
映画を観ると、登場人物の顔、表情、背丈、服装、歩き方、話し方、
声、仕草まで知らないうちに想像している。場面だって、どんな部屋の
どんなテーブルを囲んで、どんな雰囲気で話をしているか、声は静かで
落ち着いているか、荒げているか、部屋の内装はどうなっていて、
家全体の大きさ、庭、玄関先の通り、街の様子、都会からの距離、
風景、天候、季節、森や林や野原の見かけまで頭の中にできてしまう。
その全体を読書というのであり、読むというのでしょう。)
*読書は文字から離れなければ読書とは言えない!?
*ことばは原始音であった。
文字が発明されて、文字の偏重が始まった。
理由は音にくらべて保存性のよさにあった。
ことばはまず文字として保存されるようになり、
音にくらべて文字がえらそうな顔をするようになった。
文字の優位は印刷技術でさらに保存と普及が加速した。
*最近になって、コンピューターで絵や音が保存できるようになって、
あらためて文字に対する絵や音の復権が可能になった。
*けれどもまだ文字はこれまでの権威を保っている・・・
大変ですね、この数千年の優位を覆すのは。
学校英語を覆すなんていう簡単な話ではないです。
学校英語なんて待ってれば自壊します。
わたしがやろうとしていることは自壊を少しでも早くするだけのこと。
でも、文字の優位を覆せるとしたら日本からではないだろうか?
なにせmangaとanimeの発祥の地と言っていいのだから。