学研本の第一稿は終わりましたが、いろいろ修正のため、大切なみなさんの意見や
感想や投稿を読み直しています。
そうしたら、「多読的精読」についていづこさんの非常に鋭い投稿が見つかりました。
2011年の3月(!)に「ややこしきの掲示板」で読んだ当時はその鋭さが分かって
いなかった・・・ でも、今はいづこさんの疑問のいちばん鋭いところに答えることが
(曲がりなりにも)できると思っています。
原稿書きの徒然に、3年遅れでいづこさんにお答えしておこうと思います。
いづこさんの投稿は「続き」に貼り付けますが、その投稿のきっかけは
わたしがよく言っていた「多読的精読とはサラッと読んで深くわかること」
という定義のことでした。そこにいづこさんが反応してくれた・・・
これはとても大事な話題だとわたしは思います。
てなことをえらそーに書きましたが、実はぼくはいづこさんの投稿を最初に
読んだ時は意味が分かっていなかった。いづこさんが「多読的精読」では
なくて「精読的多読」ではないか、と言っている意味もわかってなかったし、
「多読から精読的多読につなげる方策」という意味もまったく分かっていなかったと、
今は分かります。
で、今はたしかにわたしが言っているのは「精読的多読」だなと分かりました。
でも、いづこさんが予言しているように(?)精読的多読になると、もうわざわざ名前を
つけることはない、多読が進めば深いところまで読み取って、浅く読んでいたころとは
違った感動がある、というだけのことなのだと、思います。
(浅い時の方が深い感動で、深い時の方が浅い感動ということもあるにちがいない!)
さかいせんせー、こんばんは。いづこです。
> 「さらっと読んで、深くわかる」
この定義における私のお気に入りポイントは
「さらっと読んで、「正しく」わかる」でなく、「深く」なことです。私は、最近ますます、「正しく」わかるのを求めることに興味を失っています♪
しかし~、さかいせんせー、今回あらためて思いあたりました。
「さらっと読んで、深くわかる」
というのは、「多読的精読」ではなく、「精読的多読」なのではないでしょうか??
↑↑↑ ここですね。
一言で言ってしまうと、「多読的精読」 は 「多読を続けて従来の精読に至る」
ということですね。そのことをいづこさんはしっかり説明してくれていました。 ↓↓↓
「多読的精読」の話題を待つ方たちの興味は、どんなふうに「行う」のが「多読的精読」なのか?
ということなのではないでしょうか。(違っていましたら申し訳ありません。)ある程度(かなり?)「多読」して、その後にどう進むことが可能なのか?
その道の一本として、期待されているのかな、と。
もちろんそれを待っている人ばかりでなく、もういろいろにつき進んでいる方たちも多いと思いますが。
さかいせんせーならどうなのか?という興味をお持ちの方がいらしゃるのかな、と。そうだとしたら、「さらっと読んで、深くわかる」だと、結果論的な響きを感じるので、
どういう方策で?というものがあるようには感じられない気がします。
多読をしていて、深くわかるときもあれば、深くはわからないけれど・・・というときもある。結局「どこまでも多読!」ということでしょうか?そうならば、それはそれでいいなと思います。
あ、でも「方策」として、
>*さらっと読んで、深くわかるには、
> 劇薬シャドーイングでことばのリズムやメロディーを体感することがいちばん
> かもしれません。まだ予感の段階ですが。と、示されていますね。
まだ予感の段階であっても、「方法論」なのですね。(と、受け取っております。)
わたしの「ひっかかり」は、ただ「多読的精読」という言い方についてだけのようです。
この辺も、いづこさんの鋭さには脱帽です。わたしは鈍い!
いまやっといづこさんの書いていることが分かる・・・
このやりとりのころからつい最近までのわたしの 多読的精読論 は
多読していると従来の精読もできるようになるんじゃないかな、なるといいな、という
程度のものだったのですね。
私としては、この意味で(さかいせんせーとは異なる意味で)
>*そこでわたしはこれからは多読的精読という言い方を使うのはやめにしようと
> 思います。ここ、さんせーです。
で、代わりのことばは何になりますか?という興味もありますが・・・
ま、いーです。笑
いづこさんはわたしのそのころの曖昧さをしっかり指摘して、
精読的多読 という言い方を提案したのだと、いまは、分かります。
単にひっくり返しただけのように見えますが、精読的多読 という言い方は
多読を追求していくと従来の精読に勝る「深さ」に届く、多読は多読のままで
いいんだ! と宣言しているように、いまは、思います。
そしてわたしは ことばの氷山 で、精読的多読の正体を突き止めたという気がする
のです。
今は昔、私も「多読的精読」に関するさかいせんせーや、みなさんのご見解を
待っていたひとりだったと思います。(忘れかけています・・・汗)多読の次の段階として、だったのかな?たぶんそう。
今、私は、
ある人が英語を始めるなら「多読」で。
ある程度のところまで「多読」で。そして
終わりまで「多読」で行って、そこで英語と縁を切るのもよし、
終わっているんだか続けているんだかわからない状態で「多読」を続けるもよし
きっと自分に必要な次の段階は「文法だ」と、「文法」コースに入るもよし、そしてまた「多読」に戻るもよし。・・・みたいにできるといいのになあ~、と思っています。
あのころも「リズムやメロディー」と言っているのでしたね。
ことばの氷山の一部が見えてきてたんですね、きっと。
いまは 音 に 絵(映像9が加わって、ことばの正体をある意味で全体的に
捉えることができたと思います。
ところがそういう全体像もいづこさんはすでに捉えて、意識していて・・・
なお、私の定義する「多読」は、もういろいろなものを含むようになってきていて
「読み聞かせ、歌、ミュージカル」や
「多読、多聴、多観、多話、多書、シャドーイング」など、学校のカリキュラムと関係ないもの、自分(たち)の興味で素材など選べるもの、自分で関わりの程度を決められるもの
問題を解かないもの、正しいとか間違っているとかあなたの英語はどの程度とか、判定を他者から受けないもの
・・・などの総称として、概念を表すことばとして使ってしまっております。こんなふうにできるのなら、
「さらっと読んで深くわかる」のは、
ねらうことではなく、ときどき、そしてやがてしょっちゅう起きること、になるのではないかなあ~。
それをわたしは tadoku と表現するようになりました。
(もっといい名前があればそれにしますから、みなさん、ぜひ提案を!)
上のいづこさんの意見に全面的、100%、賛成です。
「多読的精読」について
昔は待っていたかもしれないのですが、
もう、(与えてもらうものとして)待ってはおりません。
でもさかいせんせーが発表されたら、興味を持って読ませていただきます。
そして自分に取り入れらることなら、取り入れるぞ、という姿勢で、てぐすね引いて待っております。では~。
いづこ
いづこさん、ことばの氷山 はどうでしょう?
メールか、フォーラムへ投稿がほしいぞ!
3月1日の豊田高専、または2月28日の名古屋市中川図書館に来てもらえない
だろうか? そうしたらぜひ話したいことがある!!