なんで英語やらなきゃいけないの? OreRyuTSJさんのブログから

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OreRyuTSJさんのブログでこの疑問が話題になっていて、はたと、
わたしは大事な話題なのに一度もどこでも、書いたことも
話したこともないことに気がつきました。

OreRyuTSJさんのツイッターによると、茂木健一郎さんは
Because it’s there. と答えたそうです。

「なぜエヴェレスト(当時の名前)に登るのか?」と問われて、
最初の登頂者ヒラリー卿がまったく同じ返答をしたということです。
「なぜならそこに山があるからだ」--素晴らしい答ですが、
そのまま英語を勉強することに援用していいものか?

英語は各国語の中で世界最高峰ではないし、
登ること自体に価値を認めるなら
英語でなくてもいい。
そうすると茂木健一郎さんの答はいわば「はぐらかし」
でしょうね。

しかし、正面から答えることはできそうもないと見切ってはぐらかした点は
多少とも評価できます。 正面から答えたように見えて、実は答えていない
例は少なくないからです。正面から答えたように見えるものには
アメ版とムチ版がありそうに思います。

ムチ版はもちろん
「そんなこと聞いてるヒマがあったら勉強しろ! 大学入試科目だぞ!」
(「大学入試」のところは、中間試験でも、期末試験でも、TOEICでもTOEFLでも、
英検でも同じです。)

アメ版は、少し巧妙ですが、ムチ版がお面を被っただけです。いわく、
英語をやれば世界が広がる、海外旅行で不自由しない、会社でよい
評価をされる、回りの人に尊敬される・・・ もちろん「大学入試に効く」
というのもありますが、これはほとんどムチ版と変わりませんね・・・

「佐藤くん、その疑問は大事だね。でも、大事すぎて答が出るには時間が
かかる。今はもう入試が迫っているから、とにかく勉強がんばろう。
その疑問は大学に入ってからいくらでも考える時間はあるよ」

・・・これをおためごかしと言わずしてなんと言おう。
結局、「そんなこと聞いてるヒマがあったら・・・」の先生と何も変わりません。
やさしそうな分、また思いやりのありそうな分、鳥肌が立ちます。

茂木さんから、ムチ版、アメ版まで、要するに「面倒な質問するなよ、
参ったなあ。それ言っちゃおしまいだろ」という点で一致しているように
わたしは思います。

じゃ、さかいさんはどう答えるんだ? 正面から答えるしかないでしょうね。
「やりたくなければやらなくていいよ」と言うしかないと思います。

実際わたしの授業で「出席だけで成績をつけます」と講義要綱(授業の説明)に
書いたのはまさにそういうことですね。それに授業ではわたしは
「多読第四原則」を公言しています。四番目は「回りの人の読書を邪魔しない
かぎり何をしてもいい」--寝ててもいいし(いびきはちょっと困る・・・)、
スマホでゲームをやってもいいし、日本語の本を読んでもいいし、
ほかの科目のレポートを書いてもいい。外に出てたばこを吸ってくる人も
いましたが、別にかまわない。やりたくなければやらなくても出席していれば
単位は取れたわけです。そもそもわたし自身、教室を出て、研究室でコーヒーを
淹れて戻ってきて教室で飲んでいたことも一再ならず・・・

そしてわたしは1年間の授業のどこかで、「君たち、今多読をやらなくたって
いいんだよ。2歳半から80歳までいつでも始められるんだから、
外国語を身につけたいと自分から思ったときに始めればいい」と言っていました。

一人一人の気持ちに任せればいいのです。

わたしはだれでも放っておけば自分で生きようとすると思います。
死ぬのはいやだし、生きていれば何かおもしろいことがあるかもしれない・・・
だから、死なないために、生きるために、必要な知恵や知識や技は
自分から手に入れようとします。(これはたくさんの子どもを見てきての結論です。)

こどもがそうしないとしたら、それは大人が「生きよう」とさせないからです。
大人が自分の思う方向へ子どもを引っ張ろうとするから、子どもは(あ、大人も)
自分で生きようとしないで、大人任せにしたり、大人をごまかすことに知恵を絞って
好きなことをする余裕がなくなるのです。

しかし、「やりたいときが来たらやればいい」というのはわたしの正面切った
答ですが、それを補助する「策略」もありました。自分が英語を使って
いる姿を見せることです。自分の好きな本の話、絵本の話、映画の話、
ドラマの話、外国に行った時の大失敗の話、それから毎年必ず1回は
親しいアメリカ人の先生に「ふいに」教室に入ってきてもらって、
small talk (世間話みたいなもの)を学生の前で 「何気なく」やりました。
学生は聞いてない振りして耳をそばだててしたはずです。そして、英語を
使うということはこういうことかと気がついたはずです。それに、時には
英語を使って仕事をしている人に来てもらって多読と仕事の広がりのことを
話してもらいました。すべて、英語を使うということがどういう楽しみにつながるか、
それを実見してもらうためでした。

もう一つ、この質問は当然のことながら、

  「なんで勉強しなきゃいけないの?」

に直接つながります。

だれであれ、こちらも一緒に答えるつもりがないと、浮ついた答になるでしょう。

(わたしの答はもちろん 「やりたいときにやればいいんだよ」 です。
わたしはこどもを小学校に入れたくなかった。子どもたちと一緒に過ごす時間が
確保できるようなら、行かせなかった。日本では「義務教育」といって、
無理矢理行かされるわけですね。家庭で「教育」することを認めている国が
うらやましい。)

(それで思い出しました。28年前、長男が生まれた時に、大学の事務に行って
「1年間の育児休暇をもらいたい」と言ったら、鼻で笑われたのでした。)

(おー、どんどん思い出してきた! そのころからわたしは子どもを学校に
行かせたくなくて、ある人にそう言ったら、「でも集団行動を学ばなきゃいけない
じゃないですか!」という反論が返ってきた。そんなもん、学ばなくていい! と
わたしは反論しました。)

(思い出の最後・・・ そんな調子だからわたしは大学でいろいろ敵を作って
しまったらしく、学内事情にくわしいある先生は「さかいさんの味方は学長だけ
だね。」と言いました。梶谷さんには「学長裁量経費」から多読関係の予算を
いろいろいただきました。もっともその後、H教授も「味方」と判明。
Hさんが味方してくれなかったら、退職後に「だれでも多読サークル」を
1年間延長することはできなかった!

Hさんの再開多読サークル冒頭の挨拶がおかしかった!
なんと「ここにいる酒井さんは外れ者です」で始まった・・・)

(思い出ではないです・・・ 外れ者になることなんて、たいして勇気はいりません。
幸いどんな組織にも穴や隙間があるので、それを見つけて入り込めば、
結構好き勝手できます。外れ者と呼ばれるかもしれませんが、それが平気なら
外れ者はいいことばかりです。H教授も、さかいさんは幸せかもしれないと言ってました。)

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