一つ前の記事で書いた、多読が魔法のように(?)効いた(?)かもしれない(?)という
報告について、さっそくメールが届きました。
ひらがながいっぱいで、まるでこのメールそのものが絵本を見るようですね!
そして、うんうん、と納得するところがいっぱい! もうほとんど1行ごとに
納得なので、コメントをつけたらきっと読みにくくなると思います。
みなさんも、散文詩でも読むように、ゆっくり、じっくり、味わってください・・・
絵本の魔法、よみました。
ああ、うん、うん、そうだなあ、と、よんでいて、なんだかうれしく、なりました。
そして、思うのは、この魔法は、きっと、きえない、ということです。
よめるときもある、よめないときもある。よめる本もあるし、よめない本も、ある。よめなかった本が、とつぜん、よめる本に、なっていることも。sunny rainy snowyさんのHobbitみたいに。
英語でも、日本語でも、おなじ。
いろんなときが、あるけど、それでも、きっと、魔法は、いつも、きえないんだ、と、わたしは、おもうよ。
ぜんぜん、よめないとき、日本語でも、ことばが、こわれていって、しまうような、しんどい、ときに、かいじゅうたちのいるところの、かいじゅうたちが、一緒に、ほえたり、おどったり、背中に私を、のっけてくれたり、してくれるときがある。もちろん、こころのなかや、ゆめのなかで、ね。
ほかにも、Frog and Toadのかえるくんが、いっしょに、土の上に、すわって、わたしがよっかかって、ねむるのを、ゆるしてくれたり、するんだよ。それは、みんな、物語の世界と、つながっていて、がまくんやかえるくんの、こえが、ことばが、ことばを忘れてしまったような、しんどい、ときでも、しっかり、わたしのなかに、息を、していて、わたしが、生きられない部分を、生きていてくれている、っていうような。。。
なにいってるか、わかんないよね。ごめん。
とにかく、よめるときも、よめないときも、いつも、絵本ややさしい本たちが、知らぬ間に、かけてくれた魔法は、きえずに、のこっているんだよ、って。そう、おもう。
そして、うれしかったのは、そうか、なかまがいると、いうのは、こういうことなのかもしれないな、と。自分にかかった魔法が、もしかして、きえてしまう?とか、不安になるときに、こういう、多読の仲間がいてくれると、それだけで、自分の、おかれている状況を、もっと広い、地平線のひろがる、けしきのなかに、おいて、みなおすことが、できる。だいじょうぶ。多読がくれた、ことばのせかいとの、つながりは、そんなにやすっぽく、そんなかんたんに、こわれてしまうようなものじゃあ、ないから、って。だから、だいじょうぶ、って。
こういう、なかまの、ほうこくを、きくのは、いいもんですね。どうも、ありがとう。わたしは、すぐに、人から、はぐれてしまうので、ひとりで、多読を、しているきもちに、よく、なるけど、ああ、それでも、ひとりじゃないなあと、ね、おもうよ、こういうのを、よめたとき、ありがとう。
って、わけがわからなくなってきました。このへんで、やめときます。それじゃ。