それはなかなかおおっぴらには言えない。
TwitterやFacebookではやはり言えない。
痛く同感--なのです。 以下全部いただいたメールです。
コメントをつけると手前味噌そのままになるので控えます。
想像力は人を豊かにする。作家の作品だけだなく、その人となりなど作品の背後にあるものを知ることで、理解が深まり、つまりは文章がより味わいを増す。
そういうことを可能にしてくれるのは、想像力だ。想像力が豊かであれば、同じ作品がさらに魅力を増して、目の前に現れる。そういう体験をすれば、感謝の気持ちも自ずと湧いてくるだろう。そうであるならば、想像力をたくましくさせたいと思うだろう。多読というのはそのための良いツールだと思う。本を読む際、いちいち辞書を引かないので、その都度挿し絵なり分脈なりを頼りに自分で想像するしかない。しかも、今は分からずともいつかわかるだろう、ということで、分からない状態で先へ進むことになる。このことは、豊かな想像力だけではなく、待てる人間、不完全でもよしとする器の大きさ、包容力を持つ人間にしてくれることにもなっているように思う。作品の世界を想像することも、それを養うことだが、分からない言葉、表現を想像することの方が、むしろ想像力をたくましくさせている要因だと思う。だから、老若男女、多読をやれば、いつだって今まで以上に想像力が身につき、作品を深く味わえるようになるだけではなく、実はより人の痛みや喜びすら分かち合える人間になるのだと思う。だから多読でよく見受けられる、ブックトークで感動を語り、皆でそれを共有し分かち合う姿は、自然の成り行きだと思える。多読は外国語習得法の一つとしてだけで存在するのではないように思えてくる。立派な教育法、、、いやいや、もっと自然なものだ。人としてあるべき姿に、姿勢を正してくれる。想像する力で人であることに喜びを与えてくれるもの。つまりは、生き抜く力を培ってくれるもの。人間を生きる、ということだ。多読講座生の笑顔がその証拠。この待てるというのは大事なことだ。しかもただ待つだけではない。そのうちわかるかも知れないという、希望的観測なのだ。さらには、結局わからなくてもいい、あるいは、そのうちわかるかもということがあったことすら忘れてしまってもいいという、いい加減!とも言える楽観。電車を待てる。連絡を待てる。人を待てる。成長を待てる。は、自分を許す、人を許すにつながり、多種多様な人間社会、互いに支え合い生きて行くしかないこの世界を、結局は自分が生きやすくなるにつながる。