一つ前の記事の人からもう一つ感想が届いて、それがまた多読・Tadokuの
肝心なところを言い当てていると思うので、連続して引用を許してもらいました。
多読・Tadokuだけでなく、多読・Tadoku支援にもそのまま言えることで、
英語でも実は禅の公案のような決まり文句というか、ことわざというか、
あるのです。
それが Less is more. なんとも多読・Tadokuのパラドックスにふさわしい・・・
まず届いた感想を引用しますね。
字幕なしを続けて半年が過ぎ、素直にそのまま楽しんでいればよかったのですが、自分の進捗具合につい気が傾きがちになり、いつの間にか肩肘張っていたようです。多読の世界に分け入るのに重装備は必要ありませんね。誰でも気軽に履き慣れたシューズで出かけられる。いたってシンプル!けれど、まさにそのシンプルさが日本人の性に引っかかるのかも。”TADOKUの世界にご参加の皆様へ、厚手の上着や重たいバックパックはどうぞ置いて来てください。” ですね。Tadokuは、実はやればやるほど、もっともっとシンプルになっていく。要するに、”それ”が自然になっていく。自然になっていくがゆえに、ある瞬間、はたと不安にかられる。その”沼”に気付けたら、get back on track!そんな気づきの体験でした。
第二段落です、注目したいのは・・・
そうなんです。最近わたしも気がついたのですが、(いやずいぶん前から
そういう方向に進んでいることは意識していましたが、Less is more.までは
ことばに結晶していなかった。)多読は単純化だったといまは思います。
多読だけじゃない、Tadokuも素直な方向に単純になっていけばよさそう。
そして、多読支援、Tadoku支援も素直に進むと単純化していくという気がします。
多読・Tadokuでいえば、作品を楽しむ以外には何もしなくていい し、
支援で言えば、作品を楽しむ環境と、楽しんだ気持ちを表現できる場を用意してあげる だけ。
これ以上単純なことはありませんね。
もちろんお勉強しようという気持ちが強いと、いろいろやりたくなりますね。
強迫観念のようなものです。
時には「嫌なことをやらなければ善い結果は得られない」と思い込んだり、
「手を替え品を替えいろいろやってあげなければ生徒は動かない」と
思い込んだりします。
余計なことはやらなくてよろしい。余計なことは邪魔をするだけです。
ただ心愉しく、おだやかに外国語で何かを楽しめばいい--実はそれが
いちばん楽で早くて安いルートなのですね。
でも、そこはやはり人間、わたしもつい焦ってしまう。
それは一つ前の記事でも書いたからもう書きませんが、
いずれ、をさなごのやうにただ楽しめるようになりたいものだ。
いや、たぶんなるでしょう・・・
みなさんもできれば早めに悟りを開きましょう!
なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・ (成仏か?!)