金曜日の講座の古手、Sさんはこのごろ成長著しくて、
担当講師の粟野さんがいろいろわたしに語ってくれます。
ペーパーバックを楽しんでいるし、
映画やドラマは「基本的に字幕なし」だそうです。
そのSさんが実は多読のパラドックスの体現者でもあるという・・・
でも、Tadokuの三段階 の二段階目まできているのです・・・
多読のパラドックスのの一つに
Tadoku最中の人は進歩しているのに自分の進歩が分からない
ということがあるのですね。
いま楽しんでいるのはなんと Robert B. Parker のミステリーですよ!
それなのに、つい最近まで進歩を感じていなかった・・・
支援する方としては歯がゆいばかり。
つい最近まで分からないところばかりに目が行って、
分からない、分からないを連発していました。
* 分からないところが気になって仕方がない --Tadokuの第一段階です。
で、いまは分からないところが気にならなくなってきたというのです。
* 分からないところが気にならなくなる --Tadokuの第二段落です。
必ずしも分かるところが増えてきたわけではない。
ただ、今までは分からないことを気にしていたのが、気にならなくなっただけ。
Sさんはもう少し経つと Tadokuの第三段階 に入ります。
つまり・・・
* 全部分かった気になる
いいですか、ここで大事なことは、分かった気になるだけで、
「分かった割合はまったく変わらない」こともあることです。
「分かった割合」--30%でも、50%でも、70%でも、100%でも、
そんなことはどうでもいいのです。「理解度」などは口にするのもいやです。
だれがそんなこと、判断できるのだ!?
(理解度とか読解力などと言い出すのは脱構築以前のふるーい頭ですね。)
第三段階まで来ると、「分かる・分からない」はどうでもよくなります。
外国語を読むことがただの読書になったのです。
外国語の映画を観ることがただの観賞になったのです。
気になるのはただ一点、おもしろかったかどうかだけ・・・
Sさんの場合は読むのも聞くのもですが。