Tadoku のパラドックス 禅か、きみは!

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多読・Tadokuはこれまでの「常識」とあまりに違うので、
非常識と思われるのはともかく、禅の公案かというような面があって、
どうもまともに受け取りにくいところがあるようです。

その一つは「学ぼうと思うな、思えば学べない!」というものですね。
でも、それがなかなか・・・

そのあたりの「イライラ」というか、「もどかしさ」というか、
スッキリしない気持ちをメールで寄せてくれました。

この人はこれまで「今週のヘェ」ということで、たくさん決まり文句を
送ってくれます。前回送られてきた決まり文句について、
「これは字幕なしで収集したのですか?」と訊ねたところ、
こんな返事が返ってきて、ついでに最近感じていたという「焦り」について
書いてくれました。決まり文句もですが、そのモヤモヤについて感想を書きます。
先週の「今週のヘェ」について、字幕なし視聴で収集しました。
出典 ドラマ Scandal、それと the affair(だったな。。。)
   Hey, Duggy! 偶然見かけた一般家庭の動画.
セリフがあっという間にすっ飛んでいった!
そんな経験をした後、ほんの少しではありますが、
またキャッチすることができてホッとしています。
実は、先週は、キャッチした数こそ少ないのですが、
先生が強く推奨する、”場面とともに言葉を吸収する”について、
今まで以上に深く体感できた週でもありました。
画面を通してシーンを疑似体験。
その蓄積。
つまり、”たっぷりじっくりドラマなり映画なりを堪能する、楽しむ”。
結局これに尽きる。
これが実は簡単じゃないんですね、めんどくさいことに。
「勉強するぞ」という気持ちって、本当に邪魔なものなのですね。
つい最近Facebookで五味太郎さんの「勉強しなければ だいじょうぶ」という本の情報が伝わってきて、思わず「シェア」したのですが、
なかなかそうは割り切れません。
英語を習得しようと意気込むと、いつしかそんな風に単純でいられなくなってしまう。
そういう意気込みが強い人ほど、やっぱりどこか開き直れずにいる。
あるいはいつしか閉じてしまう。
なかなかできないと思うようになってしまう。
だから、”焦るな” ですね。
英語習得への気持ちの強さを軽んじるつもりはないけれど、
一度それは解き放ってしまって、完全に肩の力を抜くのがいいのでしょう。
これが鍵のような気がする。
拍子抜けするほどの軽やかさ。
それが、多聴多読が勉強ではないということの体感。
英語を習得したければ習得したいほど、習得したい気持ちは捨てなければならぬ!
まったく面倒な話です。無我の境地というやつと同じですね。
追いかけること自体が追いかけないことになってしまう。
わたし自身、単純に楽しんでいるときと、ふとお勉強の姿勢になっているときと、
半々くらいな気がしますね。
自分の尻尾を追いかけている気持ちだった
このメールの主は最後にこう述懐してメールを終わっています。
ま、徐々にお勉強から離れていきましょう、おたがいに・・・