しばらく前から日本はとんでもないことになっていると考えていましたが、
ここ数年はついに崖っぷちからずり落ちて、崖を転がり出したという気がします。
私一人がその恐怖に戦くというのも癪なので、みなさんにも飛行機が墜落しそうな
恐怖、息が詰まりかけて必死で空気を吸おうとする焦りを感じていただきましょう。
それというのも、Twitterで、James F. @gamayauber01 さんという人が
こんなことを書いているのを見つけて、やはりグレムリンが飛行機の翼を
壊そうとしているのは本当なんだ、空気が薄いような気がするのは昔たばこを
すっていたためではなさそうだと確信したからです。
James F.さんのツイートを5つ引用します・・・
今日も、あることを通じて現代日本が背負っているハンディキャップのうち「英語がわかんない」ことが大きな部分を占めているのではないかと考えさせられた。どんどん取り残されている。和訳英訳が出来る事と英語能力を故意に混同して英語が判るふりをしてるうちにこじらせてしまったのではなかろーか
たくさん言いたいことがあるけれど、わたしの意見を挟むとJames F.さんの
意見がわかりにくくなるので、抑えます。ただ一言、同じ意見です、と。
そう言っちゃ気の毒な気がするけど和訳とか構文解析とか受験の便宜をサブ学問化した「小手先のゴマカシ」なんだよねー。
むかしは英語くらいマジメにやればアホでもすぐに身につくから、と言ってたんだけどゴマカシが阻害して日本人だけは身につかない。
なんで、わざわざ英語できなくするんだろね
「英語が使えること」と「受験英語ができること」はまったく違うことで、
知るかぎり、受験英語ができると普通の英語はできなくなります。
もう少し具体的に言うと「英語が身についてから英文を和訳する」という方向は、やりたければありうるけど、「和訳の定石が身についてから英語が判る」ことはありえない。
そんなの、ほんとは外国語習得のイロハでっせ。英和辞書を他人に観られて恥ずかしかったと述べた上智大の学生は正しかったと思う
これもまったくその通り。
英語世界で共有されている常識の分厚い広がりと日本語のうすぺらで狭小な「常識」との乖離の幅は毎年ものすごい勢いで広がっているが、その理由はここでいう英語がEFLだからなのよね。EFL大嫌いのトランプ達のぶわかたれぶりを観れば判るとおり、母語/地方語としての英語は脇役でしかない。
ところが、ところーが。日本の人はわざわざ母語英語だけを「本物の英語」なんちて切り取ってきて、しかも500gが適正摂取量なのに30gのチビっとした英語を、あーでもないこーでもないとつつきまわすのを「英語の勉強」と思っている。いまどきアジア人の学生でも日に三冊は英語本、読むやん。
上の段落の最初の一文--何度でも読み返すといいと思います。
というより、大きく印刷しておいて、机の前に貼っておくとか?
たったいまも、日本は世界から置いて行かれているのです。
そして、置いて行かれる「必要」なんかまったくないのです、
適正摂取量500gを毎日摂っていれば・・・
結局多読・Tadokuに結びつくわけです。
でも、それだけだったら引用などいらなかった。
James F.さんが言っていることはわたしが何十年も前から言っていることで、
それはこのブログを読んでいる人は耳にたこができるくらい聞かされている・・・
James F.さんのツイートに登場してもらった最大の理由は、
最初のツイートにある「どんどん取り残されている」という部分です。
英語の遅れはだれにもわかりやすいでしょう。
けれども、英語の獲得がこれだけ遅れているのは、孤立した現象である
はずがなくて、ほかのことでもいっぱい「遅れている」ことがある
わけです。
(一つ一つについてはいまは書きませんが、これからはカナリアの
役割として、遠慮なくさえずろうと思います。)
なぜだろう、と思うのです。ちょっと前まで日本は世界の最先端を
走っていた(と、言われています)。それがまるで急ブレーキを
かけたようにスピードが落ち、どんどん周りの国に追い越され、
崖を転げ落ちようとしている。
でも、そんなことは表面的なことで、肝心なのは、
東京の電車内で思いやりを見ることが珍しくなり、
報道の自由が後退し、若者の将来への見通しが暗くなり、
封建時代そのままの血筋や家系を重んじる傾向が強くなり、
という変化です。いちばん典型的な表れは、年金を70才を越えてから
支給できるようにしようという意見が内閣の検討会議で出たことでしょう。
崖っぷちから足を踏み外して崖を転がり始める瞬間をわたしたちは
目撃しているのです。よくアメリカのテレビ漫画であるではありませんか、
崖を外れているのに落ちずに足だけ回転しているーーあの瞬間を
わたしたちは目の当たりにしているのです。