中央線沿いのある駅近くで、だれでも多読サークルが尽きに2回、開かれています。
5月10日の会にはわたしも参加して、みなさんの読書の様子を聞いて、
次回にNPOからどんな本を貸したら参加している一人一人が楽しく続けられるか
考えます。
で、終わるといつも何人かでお昼を一緒に食べます。
10日は、男の人4人と、女の人6人に別れた席になりました。
次のBさんのメールは、その女性たちばかりのテーブルでのことのようです。
5/10・ オフ会女子部の皆さま
昨日は、たくさんお話しできて楽しかったです。
私の多読法について、文章を一つひとつ訳さないで、想像力だけで読んでいるとお話ししました。それが出来るようになったきっかけの本を紹介したのですが、タイトルを覚えていなかったので、お知らせします。「The invention of Hugo Cabret」と「Wonder struck」でした。
これは、文章と絵が数頁ずつ交互に出てきて物語が進みます。絵の部分には一つも文章が付いていないので、絵を見ながら、こういうことを言っているのだろうと想像します。次に来る文章は絵の続きが展開されます。これを何度も繰り返しているうちに、今は文章なのか絵なのか気にならなくなります。つまり文章も絵も「ふわっと」に変換されて、共通のものとなって頭に入ってくるようになったのだと思うのです。
今では、その「ふわっと」がどの本にも適用されるようになり、毎回、読み切ったつもりで、読後の感想を嬉しそうに話して、皆様にご迷惑をおかけしています(笑)。Let’s enjoy happy reading together!!
なんというぴったりな表現でありましょうか・・・! ふわっと!!
(なお、迷惑でもなんでもありません。読んだ本を楽しそうに語るのをみているだけで、
聞いている方も楽しくなります。うれしそうだったら、こちらもうれしくなります。)
文章も絵も「ふわっと」に変換されて、共通のものとなって頭に入ってくるようになったのだと思うのです。
要するにわたしが最近「字幕なし多観」の話題で言っていることはこれなのですね。
ことばは絵から出てきて、絵に返るもの--その二つは切り離せないのではないか?
(そしてここでいう ことば は 文字 ではありません-- おもに 音 です。
「おもに」 の意味はいずれ書きますが、忘れてしまうかも知れないので、
大事なことだけ・・・ ことばは音です。文字はことばのごく一部を表しているに
すぎません。けれども場面と音を両方備えたことばをたっぷり吸収すると、
文字を読んだだけで場面も音も想像できるようになります。
文字だけの読書が楽しめるのは、文字から「場面と音を両方備えたことば」が
想像できるからだと思われます。
(結局長くなっておりますが・・・)
逆に場面と音を両方備えたことばをたっぷり吸収していない場合は、
多読は「多読的精読」には至らない--つまり、読書の楽しみが味わえない
可能性があるようです。その場合は次第に多読にブレーキがかかるようです。
このあたりは Graded Readers (段階別書き換え本)ばかり読んでいると
どうなるかということに関係してきます。それはまた近いうちに、と思って
いますが・・・)