5月5日の初公開、19日の初更新、23日の第2回更新に続いて
きのう6月1日に第3回の更新がありました。
次第に新サイトの中身が充実していきます。
今回おもに増えたのはここ↓
http://tadoku.org/english/faqs/
これだけ増えてくるとどれを読んでなかったかわからない!
という人は更新履歴へ! ↓
http://tadoku.org/english/update-history/
きょうはその中から
「Q: 文法がわからなくても読めるようになりますか?」
について、逆からお話しします。つまり、
「文法が分かっていても読めるようになる」わけではない!
という話を逆体験談を使って・・・
外国語を身につけるにはまず基本的な語を暗記して、
基本的な文法を勉強しなければならないと考えている人が
たくさんいますね。
それはある程度無理はない。
日本ではなんでもかんでも試験の点数で成果を測ります。
(馬鹿なことです)
英語でいえば、試験問題を作るのは単語と文法をしっかりやった人なので、
試験でいい成績を採るのも単語と文法をしっかりやった人になる。
だからたいていの人は試験のために単語と文法をしっかりやる。
ところがTOEICや英検でよい成果を上げていても、
英語で何かができるとは限らない。いや、できない方が普通・・・
それどころか、単語と文法をしっかりやって、試験を作るほどになった
いわゆる「英語の先生」が英語を普通に使えるかというとそんなことはない。
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わたしは「いわゆる英語の先生」ではないので、うまくはないけれど、
普通に英語を使います。20年くらい前に、わたしはペーパーバックを片手に
電気通信大学のある建物の1階でエレベーターを待っていました。
電車の中で読んでいた本を手にしたまま研究室に行こうとしていたのでした。
そこへ、後に東京女子大学に移った英語のF先生がとなりに立ちました。
そして言ったのです。
「酒井さん、その本読んでないんでしょ? 見栄でしょ?」
わたしは大学でだれに対しても言いたいことを言っていましたが、
さすがにこのときは唖然として一言も返せませんでした。
「見栄でしょ」とは失礼極まりない言い方ですが、
その後よく考えると、そういえばペーパーバックを持って歩いている人は
わたし以外には見たことがなかった!
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そんなもんです。大学の英語の先生なんて。
わたしは電気通信大学で36年間英語の先生をしていて、
その間に付き合いのあった英語の先生はおそらく50人にはなるでしょう。
つまり、大学の英語の先生は英語ができる人たちで、
ペーパーバックなんかさらさらと読めるーーとみなさん考えているとしたら、
それは大きな間違いなのですね。
あの人たちは研究のために英語を読みます。
たとえばジョセフ・コンラッドの小説と、それに関する研究書なんかは読む。
でもたかが数百ページの本を数ヶ月かけて読む程度のペースです。
とても読書とは言えません。
読むペースが遅いのは辞書を頻繁に引くからですね。
研究書の場合は手抜きして引く回数は減るでしょうが、
ジョセフ・コンラッドの作品そのものは知らない語はもちろん、
知っている語まで「この suggestive の意味はなんなんだ?
何か重大な意味を込めていないか」なんて考えながら
何冊も辞書を引いたりします。
そういう人たちの英語の理解はきわめて浅いものですが、
それはどういう機会に分かるかというと、入試問題を作っている時です。
わたしが就職して始めて担当した入試問題で route という語の発音を問う
問題がありました。正解は「ルート」だけだったのですが、
アメリカ英語では「ラウト」という読み方も普通にあります。
それを当時先生になったばかりのわたしが指摘するまで、
だれも知らなかった・・・
(引く辞書によっては、たいていの読み方が載っている!
学校英語はそのうち一つだけを採り上げて、それ以外は間違いとする)
単なる自慢話に聞こえるかもしれませんが、そうではないのですね。
わたしがいろいろ知っていたのは「研究」をやっていなかったからです。
ほかの英語の先生が何ヶ月もかけて1冊の「原書」を読む間に、
わたしはおそらく5冊も10冊もペーパーバックを読んだのですね。
それに映画もたくさん観た。
おお、どんどん思い出す・・・
英語の先生になったばかりのころだった。控え室で
ラジオでFENの英語のニュースを聞きながら昼ご飯を食べていて、
横にロンドン・タイムズを広げてのぞき込んでいた!
そうしたらそこへ入ってきた大先輩の英語の先生が驚いた様子で、
「酒井さんはよほど英語が堪能なんですね」と言ったのです。
そんなことは日本語だったらごく当たり前でしょう。
新聞を読みながらテレビの音声にときどき耳を貸す--
英語の先生だったら、英語で同じことをやっていても、
そう驚くことではないはず。
もうしばらく前から、日本人研究者だからと言って、
英文学の作品1冊あるいは研究書1冊を数ヶ月かけて読むなんていう
ことは浮世離れしたことでした。
日本の「英文学者」が絶滅危惧種なのは当然です。
英語学の専門家はちょっとはましかというと、そんなことはない。
英語学の専門家もまたごく少量の英文を微に入り細を穿つ研究をするので、
なかなか大量の英語に触れることはできないのです。
わたしは大学にいたころ
「日本に多すぎるもの二つ--英語の先生とゴルフ場」
と言っていました。
思い出話はどこから始まったのでしたっけ?
そうでした、文法はことばの獲得に役立つか、という話でした。
役立たないということは十分立証できたのではないでしょうか?
まだ足りないようなら、この10倍くらいはすぐにも思い出せますが・・・