YL と 語数 の「弊害」

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ある人のFacebookのコメントです・・・

「弊害」ということばを使うと一人歩きしそうですが、弊害をちゃんと考えて利用すれば、
おおいに役立つ--とくに多読をこれから始めるという人は。

YLと語数の弊害についてはだいぶ前から言われていましたが、その理由が「多読を一人でできるようにしてしまったこと」という意見はなかなか鋭いなと思いました。
と同時に、でもその”一人でできる”部分があるところが漢字の多読の強みでもあるな、とも思ったり。

その強みが仲間のいらない多読を可能にしてしまったわけで、
このままだと理屈の筋がぐるぐるぐるぐる回ってしまいますが・・・

読む聞くは1人でもできるけど、話す書くは相手がいないとできない。たしかにその通り。でも、読んだり聞いたり1人でやらなければ、結局、いくら相手がいても話す書くを続けていくことはできないのではないかなと思いますし。

これもぐるぐるぐるぐる回ってしまいますね。
けれども、そのぐるぐるを断ち切って、まっすぐ伸ばすために Tadoku三原則 を言い始めたような
ものなので、今後のブログ記事に期待してください。「読む、聞く」も一人でやるより、
一緒に語る相手がいた方がいいのではないかと今は考えています。
Skypeのブックトークおしゃべり会などは、まさにその通りでしょう?

仲間は大切だけど仲間がいなきゃできないってわけでもない。1人でも十分楽しめるってとこが、飽きっぽい私が多読&tadokuを長〜く続けられてる理由かな?

これもぐるぐるぐるぐる回っていますね。
一人でも読書として十分楽しめるところが YL と語数のすばらしくもあやういところなのですね。
こういうぐるぐる周りを論理学か何かでうまく言い方があるのではないかな?
自己撞着ってこれですか? 「同値」ですか? ちがうか・・・?

いずれにせよ、「ある人」のこのコメントで、多読の矛盾が明らかになったような気がします。
哲学的な気分になりました。 ある人、ありがとう!

追伸「語学は独学」--つまり「机に向かって、辞書と文法書を広げて、原書を読む」っていう
のが昔からの「語学学習」の形なのでしょうが、ことばはそもそも一人では成り立たない。

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