きのうの記事で、「YLと語数の失敗は、ひとりで多読をできるようにしたこと」
という意見を引用しました。
それを読んだ I さんからさっそくツイートが寄せられました。
@kunisakai 記事を見てドキッとしてしまいました。仲間なしに一人で読んできました。ただ面白い本を探して、会えばボロボロになるまで読む。日本語の本と同じ。聴く、は楽になってはいますが、書く、は自信無いな。
ドキッとした人は少なくないはずです。
そこで、YL も 語数 も、決して全面的に失敗ではなかったこと、
では、「失敗」だったのはどこだったのか? について書いておきます。
* 失敗ではなかった!
語数もYLも、漢字の多読には大事なものでした。
全国の、「仲間なしに一人で」多読する人たちにとって、大きな支えでした。
これまで多読が広がってきた大きな理由でもあります。
今でも「YLと語数」なしには多読は考えられない人たちがほとんどだと思います。
その人たちにとっては、今でも多読を続ける大きな支えです。
その人たちにとってはどちらも失敗などではないことでしょう。
* でも、足りないところがあった!!
(漢字の)多読だけを続けるためなら、語数とYLはそのまま大事な目安でしょう。
けれども、NPO多言語多読の英語多読講座を通して、
わたしたちは新しい世界を見てしまいました。
2002年に100万語読みましょうと言い出したころにはほのかな希望でしかありませんでしたが、
2012年から16年までの講座3年間のあいだに、多読・多聴が「話す、書く」にそのまま
つながることがわかりました。すると、語数とYLを頼りに一人で多読していると
どうしても届かない世界があることが分かってきました。
* 何が足りない?
それは、語数もYLも一人で多読を続けることができるように考えられた指針なので、
「話す・書く」につながる道を示していないことです。
話すにしても、書くにしても、話す相手、書く相手がいります。つまり仲間です。
けれども多読三原則を言い出したころ、そしてその後語数やYLが工夫されたころは、
話すも書くも視野に捉え切れていなかったので、仲間の必要性は実感できませんでした。
いくらでも書けそうです。
「YLと語数の失敗は、ひとりで多読をできるようにしちゃったことだと思うんだ。」という
見方はこんな風に多読の経過に新しい光を当ててくれました。
その光が照らしだした歴史を振り返るといくらでも書きたいことが出てきます。
けれども、今晩はここまで。いちばん大事なところは書きました。
I さん、ありがとう!
その後Twitter やFacebookやメールやメッセージで、意見や感想が寄せられています。
ktbさんの英文の話の合間に紹介しますから、お楽しみに!
それにしても、みなさんとこうしてやりとりができるからわたしの考えがはっきりしたり、
深まったり、広がりを増したりします。ぜひなんでも、どんなに短くても、どんなに長くても
結構です。考えたこと、思ったことを寄せてください!
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