で、Mさんが大事なヒントを二つくれた話を書きました。そのMさんからもう少し詳しい
報告が届きました・・・
酒井先生の多読講座で「読み聞かせたい絵本には、なかなかone-bite size のものがない」と発言した当の本人です。
多読講座の若い人達が伸びていく様子を見ていて、あらためて音を大切にした多読に取り組みたいと思うようになりました。酒井先生から「短いワード数からの読み聞かせを」という提案があったとき、実は、私自身も短いワード数のものからのシャドーイングや読み聞かせがしたいと思っていたところでした。ORTの最初に立ち帰って、聞き読み、シャドーイング、読み聞かせがやれたらいいのになあ、でも、できない、どうしようと思っていたところだったのです。(多読講座ではCD付きのORTはごく1部しか借りて持ち帰れないシステムになっています)
(この点はシステムというよりお金の問題も大きくて・・・)
ネイティブの子ども向けのものには短いワード数のものもないわけではない。でも、短ければよいというものでもありません。読み聞かせがしたくなるような、心に訴える本でないと気持ちが乗らないと思いました。読みたいものを読む、口に出したいものを口に出す・・・・「おさなご」とはそういうものでは・・・・これは多読の大原則に関わるとこなんじゃないか、と思ったのです。支援者も学習者同士もお互いにいっしょに進めていくのが多読だとすれば、何でも疑問に感じたことは聞いてみるに限ると思って出てきたのが「読み聞かせたい絵本には、なかなかone-bite size のものがない」という言葉でした。
(実によいなあ・・・
講師としては受講生からこんな大事なヒントがさらっと出てくること何とも言えません。)
酒井先生にもいろいろと考えさせてしまったようですが、私は私なりに酒井先生の意図をどう汲み取ろうかと考えていました。そしてそのとき考えたことを報告します。
「私の音のone-biteは非常に短いんじゃないだろうか!」 おもしろい本、好きな本の読み聞かせがしたい気持ちそのものはかわりません。でも、私が、少し語数が多い本を何とか読めているのは、私の場合、文字のone-biteのほうが音のone-biteよりも少し長いからではということでした。そして、一応、本好きではあるので、物語に浸ることで何とか読めている。でも、そこに問題があるのではないか。音のone-biteが短いままだから、聞きやすい読み聞かせにならない。なかなかしゃべれるようにならないのもその辺に原因があるのではないだろうか。私は、学校の文法教育にあまり抵抗がなかったので、良くも悪くもちょっと文法を知っている。でも、子どもの頃は音源などなかったので、シャドーイングを始めるまで、耳から学ぶということをほとんどしたことがありません。私は特にアンバランスなほうだと思いますが、多かれ少なかれ、日本人の英語は、文字のone-biteのほうが音のone-biteよりも長い傾向にある。だから、ここで音のone-biteにじっくり取り組んでみることは、とても得るものが大きい。酒井先生はそう考えられたのではないだろうか?
その通りです。
そしてここでMさんは大事な提案をしてくれました。
すなわち 音の1 byte と、文字の1 byte という見方です。
(コンピュータをまねて(?) byte と書きます。間違ってるかな?
要するに 1 byte=1回の処理に使える情報の大きさ?
間違っていたら教えてください!)
ほとんどの人はMさんの言うように、文字の 1 byte の方が 音の 1 byte より大きいのでは
ないだろうか? 文字なら 5語、6語とまとめて捕まえることができても、音はせいぜい 3語
という具合に・・・ (実際受講生のみなさんはそんな感じですね。)
私の中途半端な文法の知識は、多読で伸びるべきものを妨げているのかもしれない。聞こえなくても、文字からの情報や文法の知識で補うことができるのは必ずしも良いこととは言えないのではないだろうか。
今までの多読で、文字のone-biteは長くなったと思います。以前は一つ一つの単語を読んでいたのが、もう少し大きなかたまりで文字が見えるようになってきました。多読には仲間が「これは感動ものだよ」と話すのを聞いて読んで、感動を共有する楽しみもあります。そのために少し長い物にも手を出して楽しむこともできるようになりました。でも、その感動を表したいときに、英作文するのでもなく、文字から意識的に表現を借りるのでもなく、口からふっと出てくるようになるにはどうすればよいのか。音を大切にする。one-biteの音に立ち帰ることが必要なのはそういうことじゃないかなと思いました。
もちろん、私たちは実際には「おさなご」ではないわけだし、実際に受けてきた英語教育の弊害を認識すればよいのであって全部否定することもないと思います。ただ、もしかしたら、文字にとらわれず絵や映像、音、そして自分の感情等を大切にしたほうが、本物のコミュニケーション力に繋がるのではないだろうかという気がしています。
それがまさにわたしが立てた仮説です。
おとなでも、こどもに戻って音自体の楽しさから出発し直して、
外国語の特徴を吸収して、再現することができるようになる?
受講生のみなさんはその実験につきあってくださっているわけです!
ありがとう! そして、これからもしばらくは一緒に冒険を!!
おまけです。私は英語だとつい字にとらわれてしまうので、韓国語の絵本・アニメのサイトを見てみました。字が読めないから、まず絵、そして音、文字はその後という感じを味わうことができます。
18日の講座で、実際にどんなことをしたかについては、酒井先生や他の方にお任せします。
18日の講座のことはkatobushiさんが「多読フォーラム」で報告してくれました。
そちらも読んで、講座で何が起きているか、注目してください!