卒業について 「話す・書く中心クラス」のメーリング・リストから・・・ 続

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きのうの記事の中の後半部分、つまりある卒業生が「愚痴」と呼んでいる部分について、
ほかの講座生が反応しました。

その反応もやはり鋭いので、多読支援をする人(まあ、先生)について、
(一部の)講座生はどう考えているか、紹介します。

(卒業生)さんの言いたいことは、人それぞれ興味をもつものや多読の仕方も異なり、
自由きままに好きなように楽しめれば、多読から英語の世界が広がっていくのに、
一部の教育的多読支援者は、効率のよい多読による英語の身に付け方や統一方法を
知りたがるので、問題だと思うということ??

学校の先生は、英語教育の仕事として、効率のよい勉強法を探しているので、
多読を知り、それを学校で教える時に、一般的に教えている英語授業同様、同じ方法で
楽に教えたいというのは仕方がないのかも。

先生自身が多読にはまり、楽しさを知って生徒に教える先生はいいけど、
学習法として教えるために多読に近づいた場合は、教え方がわからないのかもしれない。
だから成功例として、(卒業生)さんに近づく…。
私達、講座生も(卒業生)さんに、どうやったのか聞いてしまうけど、真似してみたところで
自分が楽しくなかったり、合わなければ、すぐ捨ててる。ごめんね。
(仕事として多読する人は大変そう。)

「仕事として多読を教える人」 と 「趣味として多読を楽しんでいる人」 の違い--
これはとても大きな違いがあります。ほとんど別物といっていいかもしれません。

そこで、わたしが卒業生に期待することには、一つに
「趣味として Tadoku を楽しんでいる人たちこそ(受講生のみなさんは特に!)
新しく Tadoku を始める人たちの手伝いをしてほしい」
という願いがあるのです。

もちろん「自由気ままに」手伝いの道が選ばれることを望んでいるのですけどね。

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