わたしは「三原則再訪」で、多読三原則はみなさんの行動を規定するものではなく、
(いや、最初は規定するのですが)
究極的にはみなさんが 自由に、好きなように 行動できることをめざす、
という意味のことを書きました。
(自由にするためにまず縛るわけですね。わかりにくい逆説でしょうか?)
そこから、思うに、わたしはみなさんの 先生 ではいたくないのです。
みなさんにいつまでも 「こうしていいのか? ああしても叱られない?」と
意見を求められたくないのです。
わたしは多読/tadokuについてみなさんよりも長い時間考えてきました。
そしてたくさんの人に体験を聞いてきました。
だからその知識やそこから得た知恵(?)をみなさんが利用したければ、
どうぞいつでもお話しします、ということであって、
わたしはみなさんにこうするといい、ああするといけない、ということは
言いたくないのです。わたしはみなさんの一人になりたい!
それはミグさんが提起した水曜日夜の だれでも多読サークル についても
おなじなのだといま気がつきました。
だれでも多読サークル はわたしとしては「集めている」つもりはありません。
「わたしは水曜日の夜に(4月からは火曜日の17時から19時30分に)
電通大の東1号館602室におります。みなさんtadoku素材とわたしを
利用したければどうぞ来てください。」
ということなのですね。
問題はわたしが そこにいるかいないか ということだけだとわたしには思えます。
これはそれほどわかりにくいことなのでしょうか?
たしかにわたしを「酒井先生」と考えたい人はいますね。
でもできれば 「せんせー」とか 「さかいさん」とか 「さかぽん」とかね、
「くにひでさん」なんていうのもいいなあ・・・!
「せんせ!」なんていうのも・・・グフッ (さっきバナナさんとtweetし合ったばかり)
こうしたささやかな爆弾発言もやっぱり・・・劇薬!
みなさんの質問、意見、感想を求めます。