流されないために--教育委員会改革をかいくぐり、時代錯誤を跳びこえる

自民党がたくらんでいるのは教育の守旧でありましょう。

歴史教科書、道徳教育、校内規律、教員組織--すべてにわたって
国家意識を高め、上意下達の体制を強化しようとするに違いありません。
その狙いはほかの分野でも同じでしょう。 

その餌はお金です。
いまお金と権力を持っている連中がいまの体制を維持し、強化するために、
人々の気持ちをお金で釣って、選挙で多数を得て、
みんなが「お上」のいいなりになりやすかった昔をなぞろうとする・・・

安倍内閣の支持率を見ると、自民党のたくらみはものの見事に実現しそうです。
バブルの弾ける前の狂瀾にもどりたくて、大挙して流されていく人々。
お金で釣られて奴隷になろうとする人たち。 

けれどもお金が目当てで生きているのではない人たちはたくさんいます。
その人たちは国家とその支配層にはない賢さとやさしさを持っています。
その人たちが自分たちの位置を意識し、したたかさを身につければ、
「国家」をかつぐ連中のたくらみをかいくぐり、その時代錯誤を跳びこえることが
できるはずです。 わたしの希望はそういう人たちに託します。

mangaに愛の手を Wired サイトに投稿

The New Yorker 誌のブログ Book News の一番下のリンクから
Wired 誌のページに飛ぶと、comic books がハリウッドを席巻という記事が出てきました。

この話題にぴったりだったので、次のような投稿をしました。

海外のサイトに英語で投稿することもできるという例として、報告!

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音寄りの人<<<>>>文字寄りの人

「katobushi」さんがフォーラムで「音と文字のバランス」というトピックを立ち上げて、
わたしの言う多読・tadokuは

根本的なところで、tadokuはかなり「文字より」なんだと感じた 」

と書いています。なるほどわたしは「絵が大事、音が大事」と言いながら、
いまわたしがやっていることはかなり「文字より」だとあらためて思いました。

そこで、上のリンクで書いたように、もっともっと「音より」に舵を切っていきます。
もちろん、「音寄りに近づいていく」のではなくて、「音から出発」できればいちばんいい
のでしょうけど、 そこは「文字から出発」したさだめ、おたおたもじもじした動きは
「音よりの人」から見るともどかしいこともあるでしょう。
ま、わたしとしては必死で軌道修正していると思ってください。

でも、これは軌道修正が停滞していると見えたら、ぜひまた電気ショックを与えてください!

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ところで、「音寄りの人、文字寄りの人」という区別もスローガンです。警戒しなければいけません。
二つの種類の間はおそらく色合いが無限にあるはずです。 

自分にしろ、ほかのひとにしろ、音寄りの人、文字寄りの人と決めつけないようにしましょう。もちろんわたしも気をつけます。

(かつてはずばり「音の人、文字の人」という二分法の言い方もしました。「音寄りの人、文字寄りの人」という言い方はそのあたりに気を遣ったものと考えてください。)

こんな「区別」はこれまでの「外国語教育」ではだれも話題にしていないだろうと思います。
世界では外国語をまず音として吸収して、それから音として発するのが普通だろうからです。

わたし自身ここ数年気にしはじめたことでもあり、だれもそんな区別の「妥当性」、つまり本当にそんな二種類の人がいるのか、二種類ははっきり違うのか、どの程度違うのか、といったことは知りません。

多読による外国語獲得がわたしの中では以前として仮説であるように、「音寄りの人、文字寄りの人」も仮の区別です。

劇薬シャドーイング再訪

劇薬シャドーイングについては、その「すすぎ洗い効果」に自信を深めつつあります。

劇薬シャドーイングを数分から数十分すると、英語にせよ、ほかの外国語にせよ、
音が明瞭に聞こえてくるというのはほぼ確実なようです。

その先どうなるのか、については今後続報をお届けしますが、
きょうはこんな報告を・・・

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多読がはじめてテレビに登場!

単に「はじめて」を記録しておくだけですが・・・

きょう、4月18日午後5時からの日本テレビのニュースの中で、
全国の高校で「英語による授業」が始まったことがニュースになって、
小松川高校の一井さんの授業が大きく採り上げられていました。

その中で多読についても結構な長さ(2分か3分?)の紹介がありました。
全国規模のテレビ放送で多読が採り上げられたのははじめてではないかな?
これも多読が広がる段階から浸透する段階に入ってきたということなのだろうか?
よいような、わるいような・・・ ま、がんばって「よく」しないとね!

一井さん、ご苦労さまでした。よかったよ!

(おっと、がんばって「よい多読を広めよう」というのではありませんよ。
そう簡単に広げることはできません。広がりの中心をしっかり保持していこうという
ことです。広がれば広がるほど薄くなります。わたしたちの仕事は中心をしっかり
保持して薄めないこと。それを受け入れるかどうかは世間の仕事。
広げようとして無理をすることはありません。)