多読村宣言 大衆からエリート(?)へ 「常識」から非常識へ

2011年8月10日
カテゴリ : をさなごのやうに, ウンチク, 多読支援, 永遠のFAQ
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「大衆からエリートへ」という宣言は、「常識から非常識へ」と言い換えることも
できます。

(もちろんいまの常識は将来の非常識へ、いまの非常識は将来は常識へと
評価は変わるはずです。)

わたしの妄想する村の行き先は常識の届かない
地の果て、水平線の向こう、虚空の彼方!

(そう、村が移動するのです! ひょっこりひょうたん島みたいに!!)

いわゆる uncharted waters (海図なき大海) ですね。
多読村がひょっこりひょうたん島ではなくて、ハウルの動く城のようだとすれば、
広場や研究室や図書館や国際空港を抱え込んで、えっちらおっちらと征く・・・
道なき道、人無き里、鷲や鷹の舞う高地を孤独に辿る・・・

かっこいいなあ!

で、どのくらい孤独かというと、パイロットはわたししかいないと思い込んでいた・・
わけですが、直前の記事で書いたように、それはまったくわたしの思い違い、
思い上がり、思い下がりだったわけです。

パイロットは村の人たちみんなだ! というもう一つの発言をご紹介します・・・

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直前の記事でわたしが驚いたことは二つありました。
そのうちの一つは、thought は think の「過去形」(この用語にも問題あり!)だと
知らなかった人がそのことを少しも気にかけていないこと。

(常識的には気にする・・・)

そしてもう一つは、そのことを「すごい」と感じる人たちの存在でした。

常識では「なんだ、そんなことも知らないの?」という冷たい反応もありえると
思われますが、逆に「すごい」と感じる人がいる(わたし以外に)。

ほぼ時を同じくして見つけたブログの記事も「常識」を根本から疑う内容です。

それで洋書コーナーに寄って、少し前に出版された、
多読について書かれた本を手したのですが、
もう、がっくりきてしましました。


(いつもならここで画像をつけるところですが、
直接知った方が書かれた本になるので、
ぼやかしたままいきます。)


多読に関する本はすでに多く出版され、
一口に多読といっても、いろんなスタイルがあるようです。
それはそれ、多読が広く認知されているということで、結構なこと。

その通りです。
いま多読は立派に市民権を得て、裾野がずいぶん広がってきました。
広がれば、さまざまな多読が現れる--それは端から(はなから)予想していた
ことでした。

そしてそれは歓迎すべきことですね。裾野が広くなければ、山は高くならない!

この本も、9割までは多読が初めてという人や指導者向けに、
万遍なく要点を押さえた説明が加えられています。


しかし、です。


最後の最後で、大きな疑問が。
この本に関わった人は、多読の要の要がわかっていると言えるのだろうか?
本の最後にあるのが、多読前に覚えておくといい英語300語。
(@_@;)
なぜ、なぜ、なぜに???


出ていた単語は、中学で学ぶ単語ばかりですが、
これらの単語こそ、
多読する中で日本語に対応させることなく身につけてほしい、
ORTなどの超やさしい絵本からはじめれば、
日本語を介さなくても身につくもの。


一方で、中学のお勉強英語から入ると、
後でunlearnしたくてもできない、
簡単に見えて、英文の中で果たす役割はとても大きい単語ばかりでした。

たとえば、thought がどういうときに使われるかをつかみ取るには、
それが 「think の過去形」だということを知らないところから出発しなければ
無理だろうと、わたしは考えます。

thoughtはthinkの「過去形」という常識を一度覚えてしまうと unlearn
することはきわめてむずかしくなります。

「とりあえず過去形だと教えておけばいい」という人は、「言葉」というものの
奥深さにまだ気がついていない、とわたしは思います。

一例をあげれば、
タドキッズにあたるYYYさんにとって、
but は、これから反対のことを話しますよ、という合図です。
しかし、などという一日本語とは、つながっていません。

白状すると、わたしは英語学習をしすぎて、unlearn が追いつきません。
特に but については多読をはじめた人たちがたくさん「しかし」じゃないですね、
と言うのに、わたしにはなんのことかわかりませんでした。

でも、いまこの「 but は、これから反対のことを話しますよ、という合図」という
説明を読んで、やっと納得しました。

なるほど! この説明の形もわたしには納得です。わたしも、unlearn できたことに
ついて、よくこういう「何々はこれから・・・しますよ、という合図」です、という形で
説明することがあるのです。たとえば

and は「いくつかおなじ役割の語を並べてきましたが、並べる物は
次で最後です」という標識」

というように。

againstを、~反して、と覚えしまった私は、
今でも、he pulled her against him. という文章に出くわしては、
まず突き放す像が浮かんで、それから引き寄せるというややこしいことになります。
(上記2つの例は、やさしい本の多読をたっぷりした人にしか通じないかもしれませんね。)
中学で覚えるような単語をある程度覚えてからする多読では、
従来型の学び方で英語を習得する人と、
結果的にはたいして変わるところがない。
私はそう見ています。


今のところは、従来の枠組みをひょいと飛び越えていけるのは、
学会のような先生が主導する多読ではなく、
tadoku.org周辺の純粋な多読実践者だけなのかもしれない・・・

我が意を得たり、と、わたしは思いました。

(探したけれども見つけられなくて、わたしはその本は読んでいないのですが、
この記事を書いた人の感覚は信用していいと思うので、そのまま載せます。
もし何かまちがいがあればわたしは元の本を見ずに引用した責任を引き受けます。)

村がこれまでの 常識大陸 を離れて 海図無き大海 に乗り出すにあたって、
わたしは引用の最後にあるような「多読実践者」と、

いつかそういう仲間になるかもしれないはじめての人たちを相手にしようと考えています。

そういう少数の人たちと、多読が垣間見させてくれた可能性の大海に乗り出したいのです。